アートと消費主義


シアトルの Pioneer Square という地域は、歴史の旧い観光地なんだけど、同時に不思議な画廊もたくさんあります。


神奈川県藤沢生まれ・ハワイ育ち、ニューヨークでダンスの勉強をして各種公演などで活躍したあと現在はシアトルに在住という Maki Morinoue さんの公演が、先日そんな画廊の一つで開かれていたので観にいってきました。 (7/29 Sat 20:00, MiKiJio Arts)




Maki Morinoue さんの場合はご家族がハワイ出身の芸術一家なので やや特別かもしれませんが、シアトルでいろいろな公演をみていると、アーティストとして海外で活動する日本人の活躍を意外なほどたくさん見かけます。


過去 1年だけでも、私はたぶん 20 人を超える日本人の名前をシアトル地域の公演情報などで目にしていると思います。 また私も興味を感じて、そのうちいくつかを観にいきました。 たとえば:

  • Maika Misumi さん (ダンス / バレエ)。 シアトル在住。 2005年12月の Pacific Northwest Ballet の公演 "Nutcracker" と、今回の Maki Morinoue さんの公演に出演。
  • Akemi Uchida さん (バイオリン)。 ベルリン在住。 2005年9月、シアトルの Gallery 1412 にて公演。
  • Rieko Aizawa さん (ピアノ)。 Amelia Piano Trio の活動を通じて全米各地で活躍。 2005年2月、Sean Curran Company のダンスと一緒にシアトルの UW Meany Theatre で公演。


才能のある日本人アーティストが海外に活躍の場を求めることについて、以前の私は「当然だろう」と思っていましたが、最近、この傾向もまた日本社会の歪みの一つの結果なのかもしれない、と思うようになりました。


もし日本国内に、アーティストに対する機会と認知/尊敬を与えるシステムが十分に存在し、そして日本国内で成功したアーティストが国際的にも「日本で成功しているのなら、それは国際的にもスゴいということだ」という眼差しを受けることができるのならば、日本でキャリアを築こうとするアーティストはもっと増えるでしょう。


しかし現状は、日本国内に十分な機会はあるとは言えず、有名になる前のアーティストに対して社会は「マトモな人ではない」だの「怠け者のフリーター」だのと冷たい眼差しを向ける。 国内でアーティストが育つような環境を作らずにおいて、海外で努力して成功したアーティストは無条件に「一流」だと称賛するという節操のなさ。


こういう傾向を続けていると、「日本人は、アーティストを自分たちの目で評価して育てていくことができず、しかも海外で一流と認められたごく少数の人にだけ高いお金を払う、ワケのわからない人たちだ」などとも言われかねません (というか、既にこういう評価が定着してしまっていても おかしくない)。




そういう日本の現状を少しでもよくしようとしている人たちのニュースを最近2件、目にする機会がありました。


一つは、株式会社アータライブの代表、高橋 歩さんのニュース。


高橋さんは恵比寿で画廊をやっている人ですが、若手アーティストの発掘の活動を通じて、国内の環境の改善をビジネスとして手がけているそうです。 ソフィアバンク社の藤沢久美さんによるインタビューの音声がネットで公開されており、これは聴いて「いい話だなあ!」と思いましたので、みなさんもぜひどうぞ。


もう一つは、経営コンサルタントの神田 昌典さんのプロジェクト、 Professional Dreamers についてのニュース。


神田さんは官僚からいきなり経営コンサルタントになって、ビジネスやお金儲けの世界にずっといた人なんですが、最近 こうしたアート活動を開始したようです。 神田さんのプロジェクトは、数人のアーティストと共同しての発表活動、演劇、デザイン、小説など、フォーマットは多様で、まだこれからどういう展開をしていくのかよくわかりません。 彼が使っている言葉からは、シニシズムと闘おうという意志を感じるので、ときどき共感します。


これらの人たちの活動は、80年代のバブル期の「お金持ちと一部のインテリ層による排他的なアート振興」の世界よりも、もう少しオープンで身近な感じがして好感が持てます。 少し前に美術館で見たイサム・ノグチの言葉、「実際にはこの世界のあらゆるものが彫刻だ」「彫刻は生活の役にたたなくては意味がない」を思い出します。




私たちは人生のいろいろな段階で、「人はやりたいことをやるべきだ」という幻想に踊らされます。 この幻想を、アメリカ流グローバル経済のルールに素直に従って現実世界に当てはめると、「仕事(労働)での自己実現を目指す」人たちと、「消費での自己実現を目指す」人たちの二極分化の構図ができあがります。


仕事による自己実現を目指すことができる人たちは、競争に勝ち抜いていけるという意味でエリートですので、前者をエリート、後者をノン・エリートと呼んでもいいでしょう。 エリートの人たちは給料は安いかもしれないけど権力を伴う仕事に就き、感性と創造性を思う存分仕事の中で発揮して世の中のしくみを作っていく。 ノン・エリートの人たちは、権力は伴わないかもしれないけど そこそこの給料がもらえる地位に就き、仕事の中で発揮する機会の少ない感性・創造性を 思う存分 消費の世界で表現する。


――この (やや寂しい) 表現は「ポスト・フォード主義」から借りてきた表現ですが (宮台真司宮崎哲弥「M2: 思考のロバストネス」2006年 pp.169)、この表現は未来を考える出発点として役に立つと思います。 というのも、「仕事による自己実現至上主義」と「ロマンチック・ラブ至上主義」の2つの幻想によって全員を競争に駆り立て、その結果としてこの社会に「失意」「失望」「怨嗟」を大量生産・大量蓄積し、それを救う手段が「消費」または「小金持ちになること (そして消費すること)」だけ、というような社会が (アメリカだけではなく) いま日本にも作られつつあるように私は感じているからです。


この寂しい傾向に対する処方箋は、仕事の外での自己実現の手段として、消費主義的ではない手段を大切にすること。 消費主義的ではない自己実現というのは、コミュナルなもの、人どうしのつながりの中で自己を表現していくことでしょう。




まだ自分の中で論理的につながっていないのですが、この「消費主義的ではない自己実現の手段の提供」という社会的要請にたいして、日常的なアートの果たす役割は大きいのではないか、と直観的に感じています。 最もシンプルで直接的な形は作品の収集や鑑賞・批評を通じた自己表現ということになるのだと思いますが、それ以外にももっと間接的ながらも本質的で重要なつながりが どうやらここにはありそうです。 ふだん目にすることのない、時代の深い部分の情報をキャッチして それについてコミュニケートすることに関わる何か、というか・・。


シアトルにおいて気づいたことは、「Cornish College of Artsなどの芸術教育機関を中心とした草の根ネットワークの幅広さ」「ミュージカル、コンサートなどのチケットの安さ (地元の資産家の寄付による貢献)」「無数の小さな theatre での文学、演劇、ダンスなどの草の根活動の活発さ」でした。 これらが織りなして、この消費主義大国のアメリカの中のシアトルという町においても、アーティストとそれをサポートする観客のあいだで「消費主義的ではない自己実現の手段」の探求が行われているのかもしれません。




べつに有名・無名に関係なく、接することで何かを気づかされる、何かとのつながりを思い出させてくれる、そんな表現が私たちの日常に存在することは とても素敵なことだと思います。


良いアートがお金持ちだけの趣味、ではなく、もっと身近な日常の一部として 普及していくといいですね。 「消費による自己実現」幻想に踊って自分たちの一生を終えてしまわないためにも。