アンソニー・ギデンズ「第三の道」
第三の道―効率と公正の新たな同盟 を読みました。
■雑記的要約
- 自由市場 (free market) は万能なのだろうか。 私たちは、伝統を無視して市場原理にすべてを委ねる社会、新自由主義 (neoliberalism; ネオリベ; サッチャリズムとレーガニズムに代表される) が想定する社会を本当に望んでいるのだろうか。
- 工業化時代の産物としての社会主義は終焉した。
- 現在 (1998年)、古典的社会民主主義 (旧左派) と新自由主義 (サッチャリズム) という2つの大きな潮流を超克する、新しい社会民主主義 (第三の道; ラディカルな中道) が求められている。
- 新自由主義の二つの支柱である市場原理主義と保守主義が、いま緊張関係に陥っている。 また、市場そのものの社会的な基盤 (プラットフォーム) を我々はなぜ維持すべきなのか、という点について、新自由主義者は何も言おうとしない。
- 自由市場と環境問題の関係 - 1989年、ドイツ社会民主党 (SPD) は新基本綱領を採択。 環境調和型近代化により、環境保全は経済発展を阻害するどころかその源泉となり得るという理念。 Post-materialism (豊かな人々が、経済問題よりも生活の質を重視するようになる傾向) に対応。
- 5つのジレンマ
- どんなグローバリゼーションを私たちは望んでいるのか。 政治面、文化面、経済面を巻き込みながら進行する動的過程。 個人としての私たちの選択 (食事や買い物など) が地球的な意味を持ってしまう。 大前研一が言うように国民国家はもはやフィクションになってしまったのだろうか。 必ずしもそうとは言えないが、政府に期待される役割は変化しつつある。
- どんな個人主義を私たちは望んでいるのか。 「ミー・ファースト」(自己中心) な個人、共通の価値観や公共的な問題についての関心の薄い個人しかいない社会を私たちは望んでいるのだろうか。 だが、現代は必ずしも道徳の頽廃期というわけでもなく、道徳に対する新しい態度が生まれつつあるようだ。 ウルリッヒ・ベックの言う「制度化された個人主義」、福祉制度、教育制度、雇用システムなどが、伝統的共同体 (家族など) ではなく個人を中心として整えられ、雇用や教育が個人の流動性を前提とするようになれば、人は自らを個人として自覚し、行動するようになるだろう。
- 左派・右派という区別は意味をなくしたのだろうか。 平等促進 (左派) と格差の正当化 (右派)、社会変革への信頼感 (左派) とプラグマティックな懐疑 (右派)、望ましい福祉の実現方法などについて、依然として左派と右派には大きな隔たりがあるだろう。 今後、左派と右派を分かつものは、福祉国家のあり方についての見解の開きになるだろう (左派は手厚い福祉を主張し、右派は最低限のセーフティネットのみを主張)。
- 政治家の役割はどう変化していくのだろうか。 政治家にたいする、社会の変革の担い手としての信頼は近年ますます低下している。 また同様に、弁護士・医師・警察官への信頼も薄れた。 市民団体、NGOなどの活動がますます広がり、従来の行政の機能を部分的に担うようになっている。 このような傾向を、ウルリッヒ・ベックは「下位政治 (sub-politics)」と名づけた。 今後この流れは続くであろう。 しかし、市民団体について誇大妄想を抱くのもよくない。 政治家と政府は利害の調整者としてこれからも必要である。
- 環境問題について私たちはどう考えればよいのか。 新自由主義者は環境問題を軽視する。 しかし、sustainable development (持続可能な開発) は無視できない課題であり、これは市民の安全についてのリスクにどう対応するかという問題でもある。 リスクと危険を同一視せずに、リスクに私たちは積極的に立ち向かう能力を身につけなければならない。
- 第三の道のプログラム
- 私たちは安定、平等、繁栄が溶け合う社会を望んでいる。 新自由主義者 (ネオリベ) はグローバル市場をあるがままに放置するのが正しい、と主張するが、近年のメキシコやアジアでの通貨危機を見れば、適切な規制が必要なのは明らかである。 私たちは何らかの形でのグローバルなガバナンスを必要としている。
■雑感
- 小泉政権によって、私たちは新自由主義の日本における台頭を目の当たりにしている。 この政権の終わり近くになってホリエモンや村上ファンドの事件が明るみに出たのは、なんというか示唆に富んでいる。
- けど、ホリエモンや村上ファンドは、新自由主義の「暗部」と呼ぶには少し矮小すぎる存在にも見える。 日銀総裁の収賄疑惑もそうだけど、これらの問題の多くは私による公の abuse の問題であって、処方箋はおそらく SEC みたいな厳罰化と監視の強化。 新自由主義そのものの批判の材料としては使えないと思う。
- ロバート・イングルハートがその研究によって示したという「(経済問題を憂慮する) 希少性の価値観から、(生活の質を重視する) post-materialism の価値観への転換」は、最近のアメリカでの self-help 系話者 (Wayne Dyer とか Niel Donald Walsh とか) の言っている「world of abundance」ともリンクしている。 近年の日本での LOHAS やスローライフへの関心の高まりともリンクしていると思う。
- 日本では今後もあとしばらく、新自由主義全盛の時代が続くと思う。 アメリカやイギリスには、この振り子を揺り戻す力が社会的に働いているみたいだけど、 宮台真司氏が言うように、日本には この振り子を揺り戻す力がどうやらないみたいなので、 日本はこのまま社会が大混乱に陥るまでネオリベ路線で突っ走るしかないのだろうか。
- 格差の広がり、機会の不平等、地域社会の崩壊、高齢化。 新自由主義の信じる市場の力で、処方箋はありうるだろうか。 今日テレビ (TV Japan) で、フルキャスト社の平野社長が フリーターの若い人たちに対して「本当に やりたいことを見つけて欲しい、派遣労働という形をつうじて その機会を提供することが私たちにはできると思う」という主旨のコメントをしていて、そこには市場原理の枠内の中での福祉の意志を少し感じた。
- これがトニー・ブレア政権のイギリスの政策として成功だったのか否か、という評価はさておき、近年のヨーロッパの政治史の俯瞰として教えられる内容が多い。 私自身まだよく理解していない論点が多いのでもう少し勉強してみようと思う。 少なくとも、ウルリッヒ・ベックは読んでおいたほうがよさそう。