阿佐ヶ谷ジャズストリート訪問

matsuuchi2006-10-28



デジタル技術が発達すればするほど、デジタル化できないものの価値が鮮明に見えてくることがよくありますが、音楽のライブ演奏というのは そのように非デジタル的価値が際立つものの一つだと思います。


知り合いのサックス奏者 (森田 修史さん) が出演していると聞いて、阿佐ヶ谷ジャズストリートというイベントに行ってきました。

  • 鈴木 勲 OMA SOUND。 久しぶりに見る森田氏はずいぶん かっこいいアニキになっておりました。 ところで、あの狂ったように暴れていたピアニストは誰だ? 客席の最前列で 4 - 5歳ぐらいの男の子たち2人がずいぶん集中してステージを見ていたけれど、「すげー、俺もやりたい」とか幼心に思っていたんだろうか。
  • 山下 洋輔。 今回のイベントで一番の有名人だけあって、客席は超満員。 ステージがなんと神社の境内 (阿佐ヶ谷神明宮(天祖神社)の神楽殿という建物)。 神楽殿の前ではかがり火が焚かれていて、異様に渋い雰囲気の中での演奏。 寺屋ナオ、という若いギタリストと一緒にやっていました。 これぐらい有名な人になると、「若手の売込みに名前を貸す」ような仕事も多いのかな。 客席には、小さい子連れのお母さんたちが水筒とお菓子を広げていたりして、神社の境内の雰囲気もあいまって昔ながらの「お祭り」空間が出現しておりました。
  • maiko。古いタイプのジャズというよりはフュージョンイージーリスニング的な要素も入ってる音楽かな、と思ったけど、そのまっすぐさに癒されました。 ステージでの演奏はとても完成度が高く、素敵です。 1st album を出したばかりだそうです。 これからもがんばってください。
  • 矢野 忠と青空ロマンス楽団。 和服とベレー帽という姿でウッドベースを弾いていた女の子、やたらにカッコよかったなあ。


阿佐ヶ谷の町を歩き回るのは これが初めてだったけど、こういうイベントがあると 短時間に町のいろいろな場所の表情を知ることができて便利です。 今回のイベントで、阿佐ヶ谷の小さな劇場 (芝居小屋) の存在や、「バラエティ会場」として参加しているいろいろなライブのお店のことを知ることができました。 こういうふうに町の宣伝をすることが主催者側の意図だと思うんだけど、この意図はかなり成功していると思います。 神社までもがこういうイベントに参加しているということは、きっと地域のつながりが濃い町なのかな、と思いました。


シアトルで映画館に行くと、映画が始まるまえに必ず "The language of film is universal." という短いメッセージ・フィルムが流れていました。 映画の言葉以上に、音楽の言葉も universal なんじゃないかな、と感じた一日でありました。




最近、経済のロングテール化の影響についてあれこれ考えるのですが、阿佐ヶ谷の町を歩きながら、リンクはいくつか見えたのですが あまり整理された絵になりませんでした。 これは、またあとで考えてみたいと思います。 以下のりしろ。

  • ジャズ (ロックやポップスに比べればマイナー) ⇒ テール? ⇒ ネット技術によるアクセシビリティの向上。 今回のイベントに参加していたアーティストの人たちが、ほぼ全員自分のウェブサイトを持っていることに気づいてこれまたびっくり。
  • 生産技術の低コスト化と消費の多様化 ⇒ ジャンルに関係なく「大ヒット」は今後減る傾向 ⇒ マイナーながらも手堅い成功というパターンの増加 ⇒ この傾向はジャズ音楽をやっている人たちにとってはプラスでしょう。
  • レーベルや「業界」に頼る必要性の低下 ⇒ 自分で作って自分で売り出すことが簡単にできる (MySpace.com のインディーズ音楽とか) ⇒ レコード会社などの「中間業者」はもうあんまり必要がない?
  • オリジナリティ重視、即興性重視の傾向 (誰かがやっている音楽の繰り返しに魅力はなし) ⇒ 「繰り返せない」価値 ⇒ ネットで人は集めるが、コンテンツはライブで消費する ⇒ デジタル化の不可能な部分が残る


それではまた。

アートと消費主義


シアトルの Pioneer Square という地域は、歴史の旧い観光地なんだけど、同時に不思議な画廊もたくさんあります。


神奈川県藤沢生まれ・ハワイ育ち、ニューヨークでダンスの勉強をして各種公演などで活躍したあと現在はシアトルに在住という Maki Morinoue さんの公演が、先日そんな画廊の一つで開かれていたので観にいってきました。 (7/29 Sat 20:00, MiKiJio Arts)




Maki Morinoue さんの場合はご家族がハワイ出身の芸術一家なので やや特別かもしれませんが、シアトルでいろいろな公演をみていると、アーティストとして海外で活動する日本人の活躍を意外なほどたくさん見かけます。


過去 1年だけでも、私はたぶん 20 人を超える日本人の名前をシアトル地域の公演情報などで目にしていると思います。 また私も興味を感じて、そのうちいくつかを観にいきました。 たとえば:

  • Maika Misumi さん (ダンス / バレエ)。 シアトル在住。 2005年12月の Pacific Northwest Ballet の公演 "Nutcracker" と、今回の Maki Morinoue さんの公演に出演。
  • Akemi Uchida さん (バイオリン)。 ベルリン在住。 2005年9月、シアトルの Gallery 1412 にて公演。
  • Rieko Aizawa さん (ピアノ)。 Amelia Piano Trio の活動を通じて全米各地で活躍。 2005年2月、Sean Curran Company のダンスと一緒にシアトルの UW Meany Theatre で公演。


才能のある日本人アーティストが海外に活躍の場を求めることについて、以前の私は「当然だろう」と思っていましたが、最近、この傾向もまた日本社会の歪みの一つの結果なのかもしれない、と思うようになりました。


もし日本国内に、アーティストに対する機会と認知/尊敬を与えるシステムが十分に存在し、そして日本国内で成功したアーティストが国際的にも「日本で成功しているのなら、それは国際的にもスゴいということだ」という眼差しを受けることができるのならば、日本でキャリアを築こうとするアーティストはもっと増えるでしょう。


しかし現状は、日本国内に十分な機会はあるとは言えず、有名になる前のアーティストに対して社会は「マトモな人ではない」だの「怠け者のフリーター」だのと冷たい眼差しを向ける。 国内でアーティストが育つような環境を作らずにおいて、海外で努力して成功したアーティストは無条件に「一流」だと称賛するという節操のなさ。


こういう傾向を続けていると、「日本人は、アーティストを自分たちの目で評価して育てていくことができず、しかも海外で一流と認められたごく少数の人にだけ高いお金を払う、ワケのわからない人たちだ」などとも言われかねません (というか、既にこういう評価が定着してしまっていても おかしくない)。




そういう日本の現状を少しでもよくしようとしている人たちのニュースを最近2件、目にする機会がありました。


一つは、株式会社アータライブの代表、高橋 歩さんのニュース。


高橋さんは恵比寿で画廊をやっている人ですが、若手アーティストの発掘の活動を通じて、国内の環境の改善をビジネスとして手がけているそうです。 ソフィアバンク社の藤沢久美さんによるインタビューの音声がネットで公開されており、これは聴いて「いい話だなあ!」と思いましたので、みなさんもぜひどうぞ。


もう一つは、経営コンサルタントの神田 昌典さんのプロジェクト、 Professional Dreamers についてのニュース。


神田さんは官僚からいきなり経営コンサルタントになって、ビジネスやお金儲けの世界にずっといた人なんですが、最近 こうしたアート活動を開始したようです。 神田さんのプロジェクトは、数人のアーティストと共同しての発表活動、演劇、デザイン、小説など、フォーマットは多様で、まだこれからどういう展開をしていくのかよくわかりません。 彼が使っている言葉からは、シニシズムと闘おうという意志を感じるので、ときどき共感します。


これらの人たちの活動は、80年代のバブル期の「お金持ちと一部のインテリ層による排他的なアート振興」の世界よりも、もう少しオープンで身近な感じがして好感が持てます。 少し前に美術館で見たイサム・ノグチの言葉、「実際にはこの世界のあらゆるものが彫刻だ」「彫刻は生活の役にたたなくては意味がない」を思い出します。




私たちは人生のいろいろな段階で、「人はやりたいことをやるべきだ」という幻想に踊らされます。 この幻想を、アメリカ流グローバル経済のルールに素直に従って現実世界に当てはめると、「仕事(労働)での自己実現を目指す」人たちと、「消費での自己実現を目指す」人たちの二極分化の構図ができあがります。


仕事による自己実現を目指すことができる人たちは、競争に勝ち抜いていけるという意味でエリートですので、前者をエリート、後者をノン・エリートと呼んでもいいでしょう。 エリートの人たちは給料は安いかもしれないけど権力を伴う仕事に就き、感性と創造性を思う存分仕事の中で発揮して世の中のしくみを作っていく。 ノン・エリートの人たちは、権力は伴わないかもしれないけど そこそこの給料がもらえる地位に就き、仕事の中で発揮する機会の少ない感性・創造性を 思う存分 消費の世界で表現する。


――この (やや寂しい) 表現は「ポスト・フォード主義」から借りてきた表現ですが (宮台真司宮崎哲弥「M2: 思考のロバストネス」2006年 pp.169)、この表現は未来を考える出発点として役に立つと思います。 というのも、「仕事による自己実現至上主義」と「ロマンチック・ラブ至上主義」の2つの幻想によって全員を競争に駆り立て、その結果としてこの社会に「失意」「失望」「怨嗟」を大量生産・大量蓄積し、それを救う手段が「消費」または「小金持ちになること (そして消費すること)」だけ、というような社会が (アメリカだけではなく) いま日本にも作られつつあるように私は感じているからです。


この寂しい傾向に対する処方箋は、仕事の外での自己実現の手段として、消費主義的ではない手段を大切にすること。 消費主義的ではない自己実現というのは、コミュナルなもの、人どうしのつながりの中で自己を表現していくことでしょう。




まだ自分の中で論理的につながっていないのですが、この「消費主義的ではない自己実現の手段の提供」という社会的要請にたいして、日常的なアートの果たす役割は大きいのではないか、と直観的に感じています。 最もシンプルで直接的な形は作品の収集や鑑賞・批評を通じた自己表現ということになるのだと思いますが、それ以外にももっと間接的ながらも本質的で重要なつながりが どうやらここにはありそうです。 ふだん目にすることのない、時代の深い部分の情報をキャッチして それについてコミュニケートすることに関わる何か、というか・・。


シアトルにおいて気づいたことは、「Cornish College of Artsなどの芸術教育機関を中心とした草の根ネットワークの幅広さ」「ミュージカル、コンサートなどのチケットの安さ (地元の資産家の寄付による貢献)」「無数の小さな theatre での文学、演劇、ダンスなどの草の根活動の活発さ」でした。 これらが織りなして、この消費主義大国のアメリカの中のシアトルという町においても、アーティストとそれをサポートする観客のあいだで「消費主義的ではない自己実現の手段」の探求が行われているのかもしれません。




べつに有名・無名に関係なく、接することで何かを気づかされる、何かとのつながりを思い出させてくれる、そんな表現が私たちの日常に存在することは とても素敵なことだと思います。


良いアートがお金持ちだけの趣味、ではなく、もっと身近な日常の一部として 普及していくといいですね。 「消費による自己実現」幻想に踊って自分たちの一生を終えてしまわないためにも。

アンソニー・ギデンズ「第三の道」


第三の道―効率と公正の新たな同盟 を読みました。

第三の道―効率と公正の新たな同盟


■雑記的要約

  • 自由市場 (free market) は万能なのだろうか。 私たちは、伝統を無視して市場原理にすべてを委ねる社会、新自由主義 (neoliberalism; ネオリベ; サッチャリズムとレーガニズムに代表される) が想定する社会を本当に望んでいるのだろうか。
  • 工業化時代の産物としての社会主義は終焉した。
  • 現在 (1998年)、古典的社会民主主義 (旧左派) と新自由主義 (サッチャリズム) という2つの大きな潮流を超克する、新しい社会民主主義 (第三の道; ラディカルな中道) が求められている。
  • 新自由主義の二つの支柱である市場原理主義保守主義が、いま緊張関係に陥っている。 また、市場そのものの社会的な基盤 (プラットフォーム) を我々はなぜ維持すべきなのか、という点について、新自由主義者は何も言おうとしない。
  • 自由市場と環境問題の関係 - 1989年、ドイツ社会民主党 (SPD) は新基本綱領を採択。 環境調和型近代化により、環境保全は経済発展を阻害するどころかその源泉となり得るという理念。 Post-materialism (豊かな人々が、経済問題よりも生活の質を重視するようになる傾向) に対応。
  • 5つのジレンマ
    • どんなグローバリゼーションを私たちは望んでいるのか。 政治面、文化面、経済面を巻き込みながら進行する動的過程。 個人としての私たちの選択 (食事や買い物など) が地球的な意味を持ってしまう。 大前研一が言うように国民国家はもはやフィクションになってしまったのだろうか。 必ずしもそうとは言えないが、政府に期待される役割は変化しつつある。
    • どんな個人主義を私たちは望んでいるのか。 「ミー・ファースト」(自己中心) な個人、共通の価値観や公共的な問題についての関心の薄い個人しかいない社会を私たちは望んでいるのだろうか。 だが、現代は必ずしも道徳の頽廃期というわけでもなく、道徳に対する新しい態度が生まれつつあるようだ。 ウルリッヒ・ベックの言う「制度化された個人主義」、福祉制度、教育制度、雇用システムなどが、伝統的共同体 (家族など) ではなく個人を中心として整えられ、雇用や教育が個人の流動性を前提とするようになれば、人は自らを個人として自覚し、行動するようになるだろう。
    • 左派・右派という区別は意味をなくしたのだろうか。 平等促進 (左派) と格差の正当化 (右派)、社会変革への信頼感 (左派) とプラグマティックな懐疑 (右派)、望ましい福祉の実現方法などについて、依然として左派と右派には大きな隔たりがあるだろう。 今後、左派と右派を分かつものは、福祉国家のあり方についての見解の開きになるだろう (左派は手厚い福祉を主張し、右派は最低限のセーフティネットのみを主張)。
    • 政治家の役割はどう変化していくのだろうか。 政治家にたいする、社会の変革の担い手としての信頼は近年ますます低下している。 また同様に、弁護士・医師・警察官への信頼も薄れた。 市民団体、NGOなどの活動がますます広がり、従来の行政の機能を部分的に担うようになっている。 このような傾向を、ウルリッヒ・ベックは「下位政治 (sub-politics)」と名づけた。 今後この流れは続くであろう。 しかし、市民団体について誇大妄想を抱くのもよくない。 政治家と政府は利害の調整者としてこれからも必要である。
    • 環境問題について私たちはどう考えればよいのか。 新自由主義者は環境問題を軽視する。 しかし、sustainable development (持続可能な開発) は無視できない課題であり、これは市民の安全についてのリスクにどう対応するかという問題でもある。 リスクと危険を同一視せずに、リスクに私たちは積極的に立ち向かう能力を身につけなければならない。
  • 第三の道のプログラム
    • ラジカルな中道
    • 新しい民主主義国家 (敵不在の国家)
      • (中央から地方への) 権限委譲, 公共部門の刷新 - 透明性の確保, 行政の効率化, 直接民主制の導入, リスクを管理する政府, 上下双方向の民主化
    • アクティブな市民社会 (市民社会の再生)
    • 民主的家族
      • 感情と性の面での平等, 家族内での対等の権利と義務, 子供の共同養育, 親子関係の生涯契約, 子供との話し合いに基づく親の権威の在り方, 社会的に統合された家族
    • 新しい混合経済
    • 包含としての平等, 包含的な社会
      • 包含としての平等, 限定された能力主義, 公共空間 (市民的自由主義) の再生, 労働中心社会の超越, ポジティブ・ウェルフェア, 社会投資国家
    • ポジティブ・ウェルフェア
    • 社会投資国家
    • コスモポリタン国家, 多文化主義
    • コスモポリタン民主主義
  • 私たちは安定、平等、繁栄が溶け合う社会を望んでいる。 新自由主義者 (ネオリベ) はグローバル市場をあるがままに放置するのが正しい、と主張するが、近年のメキシコやアジアでの通貨危機を見れば、適切な規制が必要なのは明らかである。 私たちは何らかの形でのグローバルなガバナンスを必要としている。


■雑感

  • 小泉政権によって、私たちは新自由主義の日本における台頭を目の当たりにしている。 この政権の終わり近くになってホリエモン村上ファンドの事件が明るみに出たのは、なんというか示唆に富んでいる。
  • けど、ホリエモン村上ファンドは、新自由主義の「暗部」と呼ぶには少し矮小すぎる存在にも見える。 日銀総裁収賄疑惑もそうだけど、これらの問題の多くは私による公の abuse の問題であって、処方箋はおそらく SEC みたいな厳罰化と監視の強化。 新自由主義そのものの批判の材料としては使えないと思う。
  • ロバート・イングルハートがその研究によって示したという「(経済問題を憂慮する) 希少性の価値観から、(生活の質を重視する) post-materialism の価値観への転換」は、最近のアメリカでの self-help 系話者 (Wayne Dyer とか Niel Donald Walsh とか) の言っている「world of abundance」ともリンクしている。 近年の日本での LOHASスローライフへの関心の高まりともリンクしていると思う。
  • 日本では今後もあとしばらく、新自由主義全盛の時代が続くと思う。 アメリカやイギリスには、この振り子を揺り戻す力が社会的に働いているみたいだけど、 宮台真司氏が言うように、日本には この振り子を揺り戻す力がどうやらないみたいなので、 日本はこのまま社会が大混乱に陥るまでネオリベ路線で突っ走るしかないのだろうか。
  • 格差の広がり、機会の不平等、地域社会の崩壊、高齢化。 新自由主義の信じる市場の力で、処方箋はありうるだろうか。 今日テレビ (TV Japan) で、フルキャスト社の平野社長が フリーターの若い人たちに対して「本当に やりたいことを見つけて欲しい、派遣労働という形をつうじて その機会を提供することが私たちにはできると思う」という主旨のコメントをしていて、そこには市場原理の枠内の中での福祉の意志を少し感じた。
  • これがトニー・ブレア政権のイギリスの政策として成功だったのか否か、という評価はさておき、近年のヨーロッパの政治史の俯瞰として教えられる内容が多い。 私自身まだよく理解していない論点が多いのでもう少し勉強してみようと思う。 少なくとも、ウルリッヒ・ベックは読んでおいたほうがよさそう。

電気自動車とブッシュ政権と日本の通信・放送の融合


いまシアトルでは、Chris Paine のドキュメンタリー映画 "Who Killed The Electric Car?" が上映中。 数週間前に観た地球温暖化についての映画と同様に興味を感じたので、観てきました。 (7/14/2006 21:20 at Seven Gables Theatre)


電気自動車の歴史は意外と古く、1903 年には警察が電気自動車の一般道でのスピード違反を取り締まった記録が残っているそうですが、この映画の主題は 1990年代に開発され、2003年ごろまで一般消費者にも提供されていた電気自動車。 映画は GM の電気自動車をめぐる状況を詳しくフォローしているけれど、Ford, トヨタ、ホンダの電気自動車もほぼ同じ顛末をたどったようです。

  • 1970-1980年代、カリフォルニア州では大気汚染の問題が深刻化、とくに子供たちの間で喘息や肺病などの発病率が上昇。
  • 1990年、カリフォルニア州の委員会 CARB (The California Air Resource Board) が、自動車メーカーに対し、州内で販売される車の一部を Zero Emission Vehicle とすることを義務化することを決定。
  • 1990年、GM は先進的な電気自動車「Impact」を Los Angels Auto Showで発表。 後に1996年、EV-1 という名前で一般顧客向けのリース販売 (月400-500ドル) を開始。
  • 1995年、AAMA (American Automobile Manufacturing Associtation; 自動車メーカー業界団体) は、カリフォルニアの Zero Emission Vehicle 義務規制を撤廃させるべく圧力をかけるキャンペーンを開始。
  • 1996年、CARB は自動車メーカーの抵抗をうけ、義務規制を当初のプランよりもやや緩和。
  • 1999年、GM は Hummer (大型車) のブランドを買い取る。
  • 2000年、大統領選挙、ブッシュ氏が大統領に。
  • 2001年、GM は EV-1 の販売部隊を解雇しはじめる。
  • 2002年、GM と DaimlerChrysler などが、CARB は ZEV 規制を撤廃すべきであると連邦裁判所に訴訟。
  • 2003年、ブッシュ大統領は一般教書演説 (State of the Union Address) の中で水素燃料電池車 (Hydrogen Fuel Cell Vehicle) の研究開発の重要性を強調。
  • 2003年、CARB は実質的に ZEV規制を撤廃。
  • 2003年、GM, Ford, トヨタ, ホンダ, 「実質的なニーズがないようだ」との理由で (これはかなり疑わしいと この映画は主張している)、電気自動車の販売を終了。
  • 2004-2005年、各自動車メーカーは電気自動車を回収。 電気自動車の販売継続を訴える消費者有志の人たちの草の根運動にもかかわらず、ほとんどは処理場でスクラップ処理された。


クリントン政権時代の副大統領、Al Gore氏は当時から温暖化問題について活動していたことが知られており、クリントン氏とゴア氏が自動車メーカーの社長を前に温暖化問題の状況について皮肉を言うという面白い場面の映像がこの映画には含まれています (一般には、共和党 Republican よりも民主党 Democrats のほうが環境問題への関心は強いのでしょう)。 その後ブッシュ政権で、自動車メーカーや石油業界の出身の人たちが政権に深くかかわるようになったことが、電気自動車のプロジェクトを中断して 実現までに まだ何十年もかかる (=その間に石油をたくさん売ることができる) 水素燃料電池車のプロジェクトに注目を引くきっかけとなったのではないか、という示唆。 とはいっても悪いのは強者ばかりではなく、電気自動車の物語を理解しようとせずに短期的な値札だけしか見なかった消費者の側も問題だ、という意見も紹介されていて、その意見も一理あると感じました。




私はかつて理工系の学校教育の中で、「エンジニアは腕を磨いてモノづくりに徹するべきである。 政治や売り込みに汗をかくことは、エンジニアの仕事ではない。」と教えられました。 実際に仕事を始めてから、この考え方はとても不完全で、時代に合わないことを悟りました。 本気で価値ある何か (モノでもサービスでも知識でもいいのですが) を世の中に提供しようと思うのであれば、「私は考えて作るだけの人間、あとは誰かが世の中に伝えてくれ」などと言っていては何も世の中に伝えることはできません。 役にたちそうなモノ・サービス・知識を企画して作りこむのは当然ですが、さらに売り込みも政治も自分でやって初めて、何かを世の中に伝えることができる。 そう私は思うようになりました。


この映画は、その一連のプロセスがどこかでうまくいかなかった状況の実例として、教えられる示唆の多い映画だと思います。 そして「どうせ世の中は腐ってる」と諦めるんじゃなくて、マーケティングと売り込みと政治の力学に対してどう働きかけていけばいいのか、を考えるよい教科書ともなる映画だと思いました。 また、かつての自分と同じようにモノづくりについての偏った考え方に汚染されているかもしれない優秀な若い人たちにも、この映画を見てほしいと思いました。 自分や家族や仲間の人たちの悩みや苦労や祈りを無駄にしないために。 いや、悩みや苦労や祈りだけならまだマシなほうで、場合によっては文字通り誰かの血や命がかかっている場面に直面することもあるかもしれません。




昨年の秋ごろから、ドキュメンタリー映画をなるべく観るようにしています。 最近観たものを挙げてみると:

  • State of Mind (北朝鮮の現状)
  • High Cost of Low Price (Wal Martと地域ビジネス)
  • Future of Food (遺伝子組み換え食物)
  • An Inconvenient Truth (温暖化問題)
  • Who Killed The Electric Car? (電気自動車)

これらの映像は、いろいろな社会問題について効率よく学ぶ手段としてとても便利です。


将来 日本で自分が何かをやろうとするとき、何かを発信する/伝える手段として こういうドキュメンタリー映像を作ることが役にたつこともあるのではないかな? と、ふと思いました。 地道に取材をして材料を集めるのには労力と時間が必要ですが、必ずしも巨大な資本が必要というわけではないので、ある程度限定された人数の人たち (数百〜数万人程度?) とのコミュニケーション手段として 動画映像を自分で作るということは (少なくとも技術面では) どんどんやりやすくなっていくように思います。


今日本では、通信と放送の融合についての議論が政府・産業界で続いていますね。


大昔に制定された放送法では、放送局は政治的・宗教的に中立であるべきである、と定められており、このおかげでドキュメンタリー作家の創造性が発揮できなかったりする場面もあるようですが、多チャンネル化の時代、ある特定の政治色を打ち出したドキュメンタリーがあってもいいじゃないか、とも思います。 法整備の流れの中で、「安全でつまらない」コンテンツが増えてしまうような規制は撤廃し、「多様で刺激的な」コンテンツを作って配信しやすいような仕組みができていってほしいと思います。


私たちが「お上からのお仕着せ」の思考・行動パターンを脱し、自分たちの社会について自分たちで学び、自分たちで考えて、そして各方面に働きかけをしていくための重要な情報源の一つとして、良質で多様なドキュメンタリー映像が日本でもっともっと作られて広く流通することを願っています。 「クローズアップ現代」「NHKスペシャル」とかも悪くないんだけど、ドキュメンタリーがそれしかないという社会は不自然・・・。




[追記 7/15/2006] 原爆をテーマに 16 分のドキュメンタリーを作ったシカゴのステファン・ソター君 (14歳) が、ピースボートの招きで今月 日本を訪問とのこと。

いいニュースだなあ、と思いました。 日本って世界最高の携帯ビデオカメラを開発したり売ったりする大人は既にたくさんいるんだから、自分の国の子供たちや大人たちがこういう活動をすることを支援する人たちをもっと増やしていきたいと思います。

花火とミサイル

matsuuchi2006-07-07



7月4日は、アメリカ独立記念日でした。


この日は、日本料理店で料理人をやっている知人のアパートにお邪魔して、花火大会の鑑賞会。 彼のアパートからは、 Space Needle や Lake Union が一望できる素晴らしい眺め。アパートの庭では誰かが Dance Music をがんがんにかけていて日本的「た〜まや〜」なノリがぶち壊しでケシカランと思いましたが、花火はやはり いいものです。


昔は日本や中国から花火師がシアトルに来て演出していたそうですが、最近はアメリカの花火の技術も向上。 今年も、コンピューター制御のハイテクな花火を売りにするアメリカ人の花火エンジニア (英語で "pyrotechnic designer" と言うそうです) がニュースになっていました。




この日は花火ショーの日でもあるのと同時に、Naturalization Ceremony (帰化してアメリカ市民になる人の宣誓とお祝いのセレモニー) の日でもあります。


アメリカ市民になるときの宣誓の言葉である "The Oath of Allegiance" を読むと、これが独立記念日によく似合う宣誓であることがよくわかります。


日本からは平均して、一年にだいたい 5000人ぐらいがアメリカに移住しています (半数以上は国際結婚による移住だそうです)。 今年もいくばくかの日本人がこの日、アメリカ市民としての宣誓を行ったことと思います。 それぞれの選択をした人たち、そして その子供たちが幸せに暮らしていけることを願っています。


この 7月4日のニュースを見ると、アメリカの政府が、建国の歴史、独立の物語、合衆国憲法をくりかえし市民に語ることで愛国心を醸成すべくがんばっていることが (その成否はさておき) よくわかります。 こういう物語をみんなで共有できるというのは、ある意味でうらやましい。


一方、ここ数年の日本で流行している国粋的な雰囲気は、正しい歴史認識にもとづく意見というよりは単なる個人の内面的な不安の埋め合わせが動機であるかのような側面も強く、これを香山リカ (精神科医) は「ぷちナショナリズム」と呼んだのには私も同意。 それでもいつの日か、恐れることなく日本の物語を語れるようになる日が来てほしいと私は願っていますが、こういうことを考え始めると自分の無力を感じてしまいます。 ・・・と、ビデオニュース社の無料配信番組 (神保哲生宮台真司香山リカ山口二郎) を見ながら考えさせられました。




さっき CNN を見ていたら、なんとブッシュ大統領夫妻が Larry King Live に登場。


先日私も日記に書いた Al Gore の映画 "An Inconvenient Truth" でブッシュ大統領が痛烈に批判されていることについて Larry King が大統領に質問すると、ブッシュ氏は "I do not know if it is true. They say what they want to say. Perhaps it's politics." と返していましたが、ちょっと強がりのようにも見えました。


北朝鮮のミサイル問題については、 "I am optimistic. We can resolve those issues by working with other countries." とちょっと単純すぎるコメント。 イラク攻撃のときの傲慢さと同じ感じ・・。




いままで、英語を勉強するためもあって日本語のテレビチャンネルは申し込んでいなかったんだけど、東京での転職活動のためもあって TV Japan に加入しました。


多くの番組が NHK なので地味なんだけど、なんだか、日本語のテレビ番組をじっくり見るのがすごい久しぶりで (東京に一時滞在していたときはあまり時間がなかった)、何の変哲もないはずの地味な歌番組 (今日の番組では岡本真夜とカノンが出演) に感激してしまいました。


これを書きながら NHK ニュースを見ていたら、やっぱり北朝鮮のミサイル問題の情報がたくさん。 アメリカの NBC や CNN でもニュースにはなってるけど、日本政府の反応についての情報はやはり NHK のほうが詳しい (当たり前か)。


もともとテレビはあんまり観ない生活をしていましたが、これからはニュースやドキュメンタリーはまめにチェックするようにしようと思います。


そういえば、最近 HDD/DVD レコーダーがすごい進化しているみたいなので、予約録画もきっと今私が使っている VHS レコーダーよりもずっと便利になっているんだろうなあ。 東京に行ったら、まずは きちんとした HDD/DVD レコーダーを買おう。 もしオススメのメーカーや機種をご存知でしたら教えてください。

地球温暖化


東京はいま蒸し暑い日々が続いているのでしょうか。


シアトルは快晴が続き、夏が始まっています。 この時期は日没が遅く、夜 9 時すぎまで日が暮れません。 今日も日中はとても暑く、仕事の後、 Lake Sammamish State Park に散歩に行ってきたのですが、夕方の湖畔で暑さしのぎに水遊びをしている人たちをたくさん見かけました。


私がシアトルを初めて訪れたのは 1999 年の夏、仕事で 3ヶ月間滞在したのが最初でした。 生まれて初めての海外での仕事にドキドキ・ビクビクしっぱなしで、英語もろくに喋れず、 目に入るアメリカの景色すべてが新鮮に見えていたあの頃。 今となっては思い出の中の日々。 けど、あの頃の夏ってこんなに暑かったっけ・・・!?




最近シアトルで、地球温暖化問題を訴えるドキュメンタリー映画 "An Inconvenient Truth" が公開されました。 以前からこの映画には興味があったので、観てきました (6/24/2006 Sat 21:55 Guild 45th Theatre)。


主演しているのが、2000年の大統領選挙でブッシュ大統領と選挙で争ったアルバート・ゴア (Al Gore) 元副大統領ということもあって、いろいろなメディアで話題になっています。 温暖化問題は、彼が若いころから注目していたテーマだそうです。


とくに 1950年以降、空気中の温暖化ガス (二酸化炭素など) の濃度は急激な増加を続け、それと共に平均気温も上昇を続けている。 キリマンジャロからは万年雪が消えている。 世界各地で、氷河が溶けてなくなっている。 北極では氷の減少のために溺死したホッキョクグマが史上初めて発見されている。 海水の温度の上昇により、大規模な台風が以前よりも頻発している (例: 2005年にアメリカを襲ったカトリーナなど)。 降水のパターンが地球規模で異変しており、結果として洪水と旱魃が世界規模で頻発している。 南極とグリーンランドの氷がいま、異常な速度で溶けていっている (海面の上昇が起こる) ・・・。




この映画のメッセージはシンプルで、「私たちアメリカ人は立ち上がって、この状況を何とかしなければならない。 これは政治の問題ではなくて、倫理の問題である」というもの。 世界の温暖化ガスの 30% 以上を排出し、京都議定書への批准を頑固に拒否しつづける国の内側から こういう声が上がってきたことは、良いことだと思います。




この映画を観てまず感心したのは、そのプレゼンテーションの洗練と、Al Gore 氏の語りの力強さ。 スライド資料、観測データ、科学イラスト、地球環境の荒廃を示すさまざまな写真、動画フィルム、アニメなどが組み合わされたビジュアルは、それだけでも説得力があります。 下手なプレゼン技術の教科書を読んでいるヒマがあったら、この映画を見て優れたプレゼン手法を盗むほうがよっぽど効率がいいのでは、と思わせられるほどです。


ですが、何よりも私の印象に残ったのは Al Gore 氏の語り口調の上手さとユーモアです。 この映画は最初から最後まで、彼自身の語りがメインで、彼の声以外の音といえば控えめな音楽と、時折の背景音ぐらいですが、この映画には たくさんの知的な刺激がつまっていて、まったく飽きさせません。 なぜか この映画に登場する Al Gore 氏は、以前の 大統領選のときよりも ずっと自信にあふれ、カリスマ的に見えるようにも思います。




もちろんプレゼン技術だけじゃなくて、伝えられている内容も非常に重要なメッセージ。 いくら重要なメッセージでも、伝え方が稚拙だと多くの人には届きませんが、この映画は間違いなく超一流の伝え方がされていると思いますので、きっとこのメッセージは多くのアメリカ人の耳に届くことでしょう。 実際、アメリカの石油会社は この映画のインパクトを恐れて、この映画のあら捜しをして批判するキャンペーンに資金を投入し始めたそうです。


たとえば、今すぐ私たちが消費者の立場でできることとして、以下のような提案がされています。

  • 輸入された食べものではなくて、地元で作られたものを食べよう。
  • 冷凍された食べものではなくて、生のものを食べよう。
  • オーガニック食品を食べよう。
  • 木を植えよう。
  • エネルギー効率のよい家電製品や自動車を使おう。


内容の濃さと 飽きさせない表現、説得力のあるデータの提示など、ここ数年のドキュメンタリー映画の中では間違いなくヒット作だと思います。 日本でも、ぜひ多くの人に観て欲しい映画です。 いままで 私自身はあまり温暖化問題のことを知りませんでしたが、この映画を観て、もう少しいろいろなニュースに注意を払って温暖化問題について学んでみようと思うようになりました。






そういえば、1979年のスリーマイル事故以来 30年ぶりになるアメリカの原子力発電所を、 日立が GE と共同で建設するそうですね。


温暖化ガスを大量に撒き散らす火力発電、温暖化ガスはゼロだけど廃棄物の処理にコストがかかる原子力発電。 Perfect Answer のない中、きっと地道に慎重に、一歩一歩 より良い選択を探していくことが大切なのでしょう。 どうやら、GE自身は原子力発電のコア技術開発は担当せず、 Reactor などのコア技術は全面的に日立の技術に依存する方向で計画されているようです。 がんばれ日立。

サーカスを観ました


先日、サーカスを観てきました。 Cirque du Soleil (シーク・ドゥ・ソレー) がツアーでシアトルに来て、会社の近くの公園で上演されていたのが Varekai ("anywhere", という意味だそうです) というショーでした。 (6/7/2006; 20:00; Marymoor Park)


日本でサーカスっていうと昔も今も「空中ブランコ」「動物」「バイク」「ピエロ」だけど、この Cirque du Soleil はだいぶ趣向が違って、舞台芸術とアクロバット (曲芸体操) が中心のサーカス。 この Varekai というショーは、 天から降ってきた Icarus が森の中で不思議な生き物たちに出会うという物語 (大まか (笑)) を中心に、ダンス、アクロバット、Comedy Show、音楽のライブ演奏がステージで展開されます。 美術、照明、音楽がずいぶんカッコよくて、アクロバットもなかなかです!




クロバットの技術だけに限って見れば、 1月14日にシアトルで見た Peking Acrobats のほうがすごかったかな、という感じでした。 この Varekai というショーでも、 おそらく Peking Acrobats に影響を受けたと思われるアクロバットの演目がいくつか見られました。 たとえば、ロープの両端に重りをつけてそれを回しながら踊るという演目は、実際にステージ上で演じていたのも中国人の子供たちだったので、 Cirque du Soleil と Peking Acrobats の間の交流もたぶん実際にあるんだと思います。


中国のアクロバットが世界に与えている影響は かなり大きいんじゃないかなと、この Varekai を見て改めて思いました。 そういえば、広東の雑技団が今年の夏に 東京で「白鳥の湖」を演じるそうですね。 見にいけないのが残念・・・。


この Varekai というショーの出演者名を見ると、ロシアや東欧系らしき名前が多いんだけど、アクロバットはロシアや東欧でもさかんなのかな。




ショーの総合的な芸術度では、 Peking Acrobats よりも、この Cirque du Soleil のほうが見ていて断然「カッコいい」という感じがします。 たとえば、ステージの音楽もきちんとステージ衣装を着たミュージシャンたちが演奏していて、ステージの端で 歌を唄ったりバイオリンを弾いたりしている姿も絵になってる。


そして、なんといっても衣装がすごい!!  この Varekai のショーの衣装をデザインしたのは石岡 瑛子さん。 フランシス・コッポラ監督の "Dracula" (1992年) とか、 Jennifer Lopez の衣装がびっくりの "The Cell" (2000年) でも衣装を担当した人。 この Varekai の衣装もすばらしかったです。 彼女の経歴はここでも見られます。




サーカスの伝統とか、いろいろな国のあいだでの文化的な mix とか、他の芸術分野との交流とか、歴史を追いかけるのも面白いけど、 まったく予備知識がなくても 単純に観て楽しい、というのがサーカスのいいところですね。 私が行ったのは平日の夜だったけど、家族連れの観客がたくさんでした。 子供も大人も楽しめる、優れたエンターテイメントだと思います。