真理の言葉と機能の言葉。


シアトルに戻りました。 東京からシアトルへの飛行機はエアバスA330だった (Northwest 8便)。 エコノミーだけど各席で On Demand の映画が見られるというのは便利 (座席は狭いけど、A330 のこの機能はかなりポイントが高いと思う --- エアバスあっぱれ、ボーイングがんばれ)。 映画では Denzel Washington の "Man On Fire" と、Charlize Theron の "Aeon Flux" を見た。 以下一言評。 Man On Fire: 「Mexico Cityで子供の誘拐が多いのは本当だろうか? その多さには何か社会的な理由があるんだろうか? ところで Denzel Washington はいつ見てもかっこいい。」 Aeon Flux: 「日本のアニメ文化の影響を受けていることが一目瞭然で、これはアメリカでは一体どういう客層に売れているんだろうか? ところでCharlize Theronは、この映画での出演よりもNorth Countryでの出演のほうが好き。」


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それはさておき。 映画を観つつ、"波状言論S改" [2] や "ネット社会の未来像" [1] を読みながら 今後のプランニングに役に立ちそうなキーワードを少し学習 & 整理。


■ポジティブ・ウェルフェアとネガティブ・ウェルフェア [1]

  • ポジティブ・ウェルフェアとは、動機を持つ人を手当すること。 成果を挙げた人には大きな報酬を、そしてうまくいかなかった人には再チャンスを。 一方、ネガティブ・ウェルフェアとは、どうしてもうまくいかない人たち、または本当の意味での弱者の人たちを手当てすること。
  • 今の私はこのポジティブ・ウェルフェアを促進していく仕事に興味があるけれど、もう少し年齢を重ねればネガティブ・ウェルフェアの分野でも何かやろうと考えるようになるかもしれない。


■文化的多元主義 (Cultural Pluralism) と多文化主義 (Multi-culturalism) [3] [4]

  • この2つを別のものと考える人たちが巷にはいるようだ。 これは、たぶん「どの程度の差異を許容するか」という程度の問題だと思う。 ちょっと雑な言い方をすれば、枠組みをあくまで共通のものにしたうえでの差異を尊重する、というのがアメリカ的な Cultural Pluralism かな。 枠組みそのものが違ってもかまわない、というのがカナダ的な Multi-culturalilsm かもしれない (この場合には、たとえばケベックが国からの独立や強い自治を志向するみたいな傾向が出てくるみたいだけど)。
  • 今の私は、「近代化」は大いに推進したいけれども、その答えがいつでもどこでも「アメリカ化」であるとは思っていない。 近代、という枠組みは私は尊重しようとしている。 適切な Multi-culturalism や Cultural-Pluralism のかたちは、文脈によって異なってくるのだと思うし、アメリカは一つの可能な文脈。 日本やアジアの文脈での Multi-culturalism は、今後どうあるべきなんだろうか。


島宇宙化と、全体を見ることを諦めること。 [2]

  • 全体を見ようとすることは無謀な試み。 人はそれぞれ小さな島宇宙の中で、島宇宙の中では濃密だけど 島宇宙の外とはコミュニケーションが不可能な世界で生きていくしかないのか。
  • 流されて生きていくことは、べつに悪いことではない。 ただ、流されて生きた果てに辿りつく先が もしメンヘル系 (メンタル・ヘルス系) の癒しの世界、日本のここ数年のスローライフ・ブームやスピリチュアリティへの関心、アメリカでの変わらぬ Self Help 市場の堅調、なのだとすれば、「自分は流されない」という選択をあえて行う人たちへもサポートを提供することが社会的・経済的に必要。
  • ビジネスをやる立場としては、両方のタイプの人たち (潜在的顧客) にそれぞれ違ったメッセージでアプローチしていくことができる。 社会の現状の分布、そして少し近い将来の分布に添って投資を行うことで、リターンを上げていくと同時に 社会的変化の一助をつくっていくこともできるのではないかと思う。


■多様性と流動性、 グローバリゼーション。 [1]

  • リベラリズムの本質: 「誰か他の人と立場が入れ替わったときに、あなたは大丈夫だといえるか。 言えるなら、あなたはその相手とフェアな関係にある。 言えないなら、それはフェアな関係ではない。 たとえば、貧困な生活を送っていく人と立場が入れ替わったときに、あなたは大丈夫だといえるか。」
  • 自分は交換可能な存在である、という考え方を受け入れ、推し進めざるを得ないのが リバタリアン的なリベラリズムであり、 これは現在進行している経済主導型グローバリゼーションが結果としてもたらすであろう社会でもある。 これを不安に感じる人たちを救済する宗教などがなくなることはないだろう。
  • 私は、世界がすべて均質になって流動化してしまうことには、心の底ではどこか反対しているように思う。 世界には、完全な均質を私は求めていない。 多様性を求めている。 多様性のためには、私は多少の不便を喜んで受け入れる。 そして、交換可能ではない人間関係が可能であって欲しい、と私はどこかで考えている。 この意味で私は、完全なリバタリアンではなく、少しコミュニタリアンな方向を志向している。
  • このような感じ方をしている人は 意外と多いのではないか、とも思っている。 たとえば、1999年のシアトルでのWTO反対騒動を突き動かしていたのは、 こういう流動化への抵抗でもあったのではないか。


■真理の言葉ではなく機能の言葉を使って、ニヒリストたちと闘う [1]

  • 真理の言葉 (「愛がすべて」とか) は、政治的に 弱い。 ニヒリストたちに「純粋まっすぐクン」「真理クン」で片付けられておしまい。 むしろ、機能の言葉 (真理については何も言わないけれど、仕組みと戦略を記述するための言葉) のほうが、戦略的に行動を起こしていくためには有効なのだろうと思う。
  • これは、数学の微分方程式がなぜ有用か、という話に少し似ている。 一意の解は記述できないけれど、関係は記述できる、という方程式。 関係が記述できれば、ニヒリストたちの使っている戦略も分析できてしまう。
  • システム理論の強さはここにある。 機能と関係を記述せよ。


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最近のネット技術は、思想とビジネスの距離をどんどん縮めてくれている (=道路を舗装してくれている)。 お金の流れはメッセージ。 自分は一体どんな流れに加担したいのか。 自分は いったいどんな社会の中で暮らしたいのか。 それが、自分のキャリアの方向性と、その時々の仕事の選択を決めていく。 言語化の道のりは長いけど、とくに不安は感じていない。


「読むべき本」リストがどんどん長くなっていく。 うーん、まとまった読書のために1週間程度の休暇をとるというのも ときどきやったほうがいいのかも。


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参考文献:
[1] ネット社会の未来像. 宮台 真司, 神保 哲生etc. 春秋社. 2006.
  http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/439333244X/
[2] 波状言論S改. 東 浩紀 etc. 青土社. 2005.
  http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4791762401/
[3] 亜細亜主義の顛末に学べ. 宮台 真司. 実践社. 2004.
  http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/491604374X/
[4] 多文化主義の可能性. 村島 智子.
  http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Ibunka/kyokan/yoshioka/yoshioka-sub3-murashima.html


以前の日記:

  • 3/4/06 再びシアトルへ。 進化は多様化。

    http://d.hatena.ne.jp/matsuuchi/20060304