キャリア形成について、若い人たちに伝えたいこと=自分が聞きたい意見。


最近たまたま、仕事の選択やキャリアの形成をめぐって、これから社会に出たり大学生になろうとしている若い人たちに私たち年長者が伝えるべきことについて 興味深い意見をいくつかネットで見かけた。


意見(1)。

研究人生を、昇進ゲーム、研究者の棲み分け、論文稼ぎ/研究資金調達といった面を中心に考えるのはとても空しく感じます。(中略) 研究者は精進して精一杯研究や教育に尽して、社会貢献するべき、というのが正道ではないでしょうか? ですので、これから研究者を志す人には、このようなボードゲームはお勧めできません。 教育上よくありません。
  研究者の幸福とは? (情報化の現状と未来, 4/26/2006)

意見(2)。

調べたり議論していると銀行のビジネスモデルが揺らいでいるとか,不良債権が大変だとか,新興市場が出来て間接金融から直接金融への移行が加速とかそういう話をするんだけど,就職活動に入った瞬間,みんなそういう銀行を受けるんだよな,これが.金融論を学んで金融界に行くのはまぁ素直なのかも知れないけど,お前らゼミで議論してたことは何だったんだ?とか突っ込みたくなった.けれどもこれは学生のせいだけというよりも,会社が就職活動をそういうものにしている,というのもあるんだろうな.
  要はガクモンな仕事って少ないんだよ,きっと (雑種路線でいこう, 4/23/2006)

意見 (3)。

組織は潰しのきく人材を手放したがらないし,たいがい上のいうことを聞いていると,飼い殺されてしまうようにできている.
 かといって,教育ビジネスもベンダと連んでマッチポンプ式に共依存なエンジニアをどうつくるかという仕掛けだから,あまり幸せになれそうな気がしない.では,流行りそうな技術にヤマを張って,教科書がなくても自分でガツガツ調べて試して勉強できるような技術者って,どうやったら育つんだろうか.或いはその路線を目指した場合に,ちゃんと報われるキャリアパスみたいなものは,どうやったらつくれるんだろうか,とか,そういうことを悩み始めている.
  人材不足?の背景 (雑種路線でいこう, 4/26/2006)

意見 (4)。

プログラマは新しい技術に長けていることだけが価値じゃない。 大量に積もった細かいタスクを淡々とこなしていける並行処理能力をもったプログラマ。あるいは人が作ったものを丁寧に磨いていける能力を持ったプログラマ。そういう複数のカテゴリの人たちが一緒になって組織を作っていくのです。組織はお互いがお互いの仕事を尊敬しあってやっていないと、いずれ崩壊する。だから、僕はこの異なるタイプのエンジニアの能力というのをお互いがお互いに認識しあえるかどうかは非常に重要だと思っています。
  プログラマの種類とキャリア (naoyaのはてなダイアリー, 4/26/2006)

意見 (5)。

思い起こすと学生時代、「開発」は企画の命令でただモノを作る作業者、「営業」はお客にへこへこして契約を取ってまわる作業者で、「研究」と「マーケティング」は何やってるかよくわからなくて、クリエイティブな仕事をしていそうな職能は「企画」と「デザイン」だけのイメージがあった。 (中略) クリエイティブ=企画、それ以外=誰かの下僕の労働者,冴えないサラリーマン....そんな固定概念を持ってしまっていた。
  就職活動ではみんな「商品企画」希望っていうけど企画職能はツブシが効かねぇぞ! (キャズムを超えろ!, 4/23/2006)

意見 (6)。

学校から労働の場への接続は、何よりも雇用した企業が新入社員教育として行ってきた長い歴史がある。学卒の新入社員は、職業や労働に対して余計な知識を持っていることより、素直に何でも受け入れることが求められてきた。職場の先輩や人間関係の中で、技能・技術に関する訓練やOJTの中で、「企業文化や風土」に染め上げることが会社への帰属意識や忠誠心を育てることに必要だったからである。キャリア教育では、「望ましい職業観・勤労観の育成」が小学生段階から一貫して強調されている。「職業観・勤労観」は、「職業や勤労についての知識・理解及びそれらが人生で果たす意義や役割についての認識であり、職業・勤労に対する見方・考え方・態度などを内容とする価値観である」としている。(前掲書P162)ここで問題なのは、誰にとって「望ましい」のか、であり、その内容は何か、である。耐震偽造事件や欠陥自動車の隠蔽、高級官僚の天下りや財界の政治家へのヤミ献金や贈収賄など政財官のモラル崩壊状況が連日報道されている環境の中で、「望ましい職業観・勤労観」が求められているのは、「大人社会」であり、子どもたちには、どのように説明してもリアリティを持って明示的に示すことは難しい。
  横山滋氏の意見 (もじれの日々, 4/27/2006)


個々の意見はそれぞれ興味深い立場を表明したもので、これらについて良くも悪くも言おうとは思わない。 ただ、こうしていろいろな意見を並べてしばらく読み返しながら、自分の今までの社会人経験と比べてみると、自分が今まで周囲の年長者に聞かされてきた意見のどれが自分の役に立って、どれが役に立たなかったのか冷静に評価できて面白い。


(そういえば、意見 (5) についての対論として、「ウェブ進化論」で紹介されている Ph. D. 保持者が汗を流す Google の文化についての意見もある。 私の見るところ、人をコントロールしたいという欲求の強い人は、周囲への善意よりは自分の中の欠乏感に衝き動かされていることのほうが多いと思う。)


自分の次に来る世代のことを考えたときに、私たちは大人として、これから大学に入学したり社会人になったりしていく若い人たちに どんな応援のメッセージを送れるんだろうか、ということを ときどき考える。 本職の研究者と共に過ごすことのできる学習・研究環境の魅力について。 会社に就職するということが、必ずしも人に「使われる」ということではないということ。 仕事や会社や恋人との共依存の関係に陥らないように気をつけなければいけないということ。 独立して働くという可能性について、などなど・・・。


どうやって若い人たちを応援できるか、は簡単ではなさそうだけど、言ってはいけないこと、というのはいくつかあるように思う。 たとえば、私は若い人たちに対して、以下のようなことを あたかも不動の真実であるかのように言う大人ではありたくないと思う。

  • 「学生のうちは、世の中の実情を知らなくてもいいんだよ、どうせ知ろうとしても無理だし」
  • 「大学生のうちに いっぱい遊んでおきなさい、就職したら遊べなくなるから」
  • 「会社に就職したら、ごく一部の人たちを除いては、ほとんどが人にコキ使われる仕事で、みんな『食べていくため』にガマンしているんだよ」
  • 「研究生活は、修行僧みたいな生活が理想なので、経済やお金の動きに関心のない人しか やってはいけないんだよ」


こういう意見は、ある側面をネガティブな言葉で言い当てているのかもしれないけど、こういう意見に同意せずに「ムカつく、なんだそれ?」と思う人たちが 多数いてほしいと思うし、こういう意見に同意しない大人たちも存在していて、そういう大人たちが全員 現実離れした夢想家であるわけでもないということを伝えたい。 夢想家と呼ばれることにビクビクしている、全部を諦めている大人しかいない社会なんて、なんというか、平和でいいのかもしれないけどカッコ悪すぎて、若い人たちに あんまり見せたくないと思う。


もう少し考えてみよう。