多様性とグローバリゼーションをめぐる最近のニュースについての雑感


多様性 (diversity) の大切さを軽視してしまう問題は、シアトルで生活して自分がマイノリティ民族の一人としての立場を経験してはじめて、リアルな問題として考えられるようになったことの一つです。


押しとどめようのない経済的・文化的グローバリゼーションの流れの中で、それでもなお多様な文化がなるべく少ない摩擦で共存して生きつづけ、しかも それぞれの文化が経済的に競争力を保ち続ける方法はあるのだろうか。 地域社会のマクドナルド化、「簡単・便利」の名のもとに日本の地方の人々がファミレスとコンビニを選びつづけ、地域共同体が弱まっていく傾向はもう変えられないのだろうか。


個人どうしのつながりはどんどん砂粒化していく。 お互い知らない人どうしの相互不信は増大する。 誰か特定の人が悪意を抱いているわけではないにもかかわらず、南北問題的な構図があちこちに生まれ、顔が見えないシステムの暴力によって この世界の豊かさが損なわれている場面がどうしても次から次へと目に付いてしまいます。


エンジニアの端くれとして、自分が汗を流して作った製品なりサービスなりが使われた結果として、自分がその「顔の見えないシステムの暴力」に気付かないまま加担して、この世界の文化が貧しくなってしまうのだとしたら、これは大問題だと思うのです。


このことについて考えれば考えるほど、自分がいかにモノを知らないかに愕然とします。




べつに閉鎖的・偏執狂的・自己愛的なナショナリストである必要はないのだけど、日本という一つの文化圏 (日本にいる日本人以外の人たちも含め) の活力が弱まることは、世界の多様性にとって損失なのだ、と思うようになりました。 (こう思うようになったことが、私がアメリカから日本に戻ろうと思ったきっかけの一つでした。)


「中国 or 日本」だとか、「アメリカ or 日本」だとかいう対立項による問題設定は、この本質を見えにくくしているように思います。 多様性を促進するためには、口先でそう言っているだけではダメで、A. ミンデルが著書「紛争の心理学」で提唱しているような真摯なコミュニケーションを日々実践し、シアトルでも起こっている移民規制強化反対デモのような場面を他人事ではなく、日本にも関連の深い問題として考え、大前研一氏が著書「ロウアー・ミドルの衝撃」で語っているような問題解決アプローチを、日常の自分の仕事や私生活で地道に実践していく必要があるように思います。


そんなことを考えながら 町を歩き、日々世界で起こっているニュースに耳をすませていると、この多様性とグローバリゼーションをめぐる摩擦の音があちこちに聞こえます。


今日は、そんなニュースを少し拾い集めてみました。




一つ目のニュース。


2006年5月5日からの週、2005年公開の香港映画「The Promise (無極)」がシアトルの映画館で上映されていたので観てきました。 Searchina ではわりと好意的な報道がされていて、出演している俳優・女優も中・日・韓の大物なので どんな映画なのだろうと思ったのですが・・・。 観てみて、だいぶ肩すかしというか、これって脚本にムリありまくりのベタな B 級ファンタジーやんか! (笑) 見終わってから US メディアをチェックしてみたら、予想通り、おおむねボロボロに言われていました (笑)。 これはその一例:

"The Promise" is crazy, but it is for the most part the good kind of crazy. It's big, fantastical and epic, combining grand scale with individual passion. It's absolutely gorgeous to look at. It's also utterly ridiculous, with action that leaps from exaggerated to cartoonish, a plot driven by trivial things, and special effects that occasionally fall well short of the cinematography that surrounds them. The film careens back and forth across the line between glorious excess and excessive excess.


日中関係はまったくもって政冷経熱のようです。 5月9日には、経済同友会が首相の靖国参拝懸念を表明、すぐさま小泉首相それに反発、とのこと。 こういうニュースと前後してこういう映画を見ると、その温度差にあらためて驚きます。


ピリピリした政治の話はどこ吹く風、内容はベタな B級 とはいえこういう中・日・韓共同の映画を作ることにチャレンジしてくれている香港映画界の熱意とエネルギーには敬意を表したいです。 現在はお互いの歴史認識にあまりに隔たりがあるので無理としても、いつの日か将来、中・韓・日の映画界が共同して、第一次大戦から第二次大戦にいたる歴史のドキュメンタリー・ドラマ映画が作られる日が来ることを願っています。 今回の The Promise の映画の中身には私はあんまり良い印象を受けませんでしたが (笑)、まあそれは趣味の問題です。 かつての Tokyo Raiders (中・日) とか、 Seoul Raiders (中・韓) みたいな映画は、楽しくてよく出来た映画だったと思うので、これからも 香港映画界の人たちを応援したいと思います。 こういうグローバリゼーションには私は大賛成で、商業的にも成功するのはいいことです。


シアトルは雨の町だからなのか、Movie Goer と Book Worm が多いと言われています。 映画館にもいろいろあって、郊外にある一般家族向けの大型映画館ではハリウッドものやディズニーばっかり上映していて私はあまり行かないのですが、私がちょうど今住んでいる University District という地区にある小さな映画館では、コアな映画ファン向けに、ハリウッド系ではない世界中の映画を上映してくれています。 最近の日本映画では、Nobody Knows (誰も知らない) とか、Tony Takitani (トニー滝谷) とかもシアトルで上映されていて、白人の映画ファンの人たちがじつに興味深そうに鑑賞している様子を見ること自体が私には楽しみの一つでした (私が映画館の客席を観察していた限りでは、とくにNobody Knows は観客の人たちに強い印象を与えていたようです)。 Tony Takitani も、いわゆるアメリカの白人の人たちの間に一定数いる村上春樹ファンを強く惹きつけている感じでした (そういえば、村上春樹って今年の10月にプラハカフカ賞を受賞するそうですね。 めでたい。)




二つ目のニュース。


マル激 2006年5月5日号のテーマは入国管理法改正案でした。 法律の話とは別に、それを支える IT システムを誰がつくっているかという話を聞いて、またまた考えさせられました。


日本人一人一人の出入国管理のオンライン・システムについて、これまでの古くてレガシーなシステムは日立などが専用システムを つくっていたのを、オープン系 (LinuxWindows) を使って全く新しく作り直すという仕事をアクセンチュア社が日本政府から受注したとのことです。 アクセンチュア社は日本政府から他にもさまざまな重要なシステムの開発を受注しており、日本政府側の個々の窓口が把握していないところで、じつはアクセンチュア社側に、日本に住んでいる人たちの個人情報、犯罪履歴などについての巨大なデータベースが出来上がりつつあるという可能性があります。


アクセンチュアには私の友人も勤務しているし、アクセンチュアの社員の人たちの能力の高さと誠実さを私は決して疑うわけではありません。 しかし、日本政府が必要とする公的なシステムと、日本人の個人情報や出入国情報、犯罪履歴まで含めた巨大なデータベースの開発を、アメリカ企業が担っているというのは、国家の独立性と安全保障の点で危険すぎないだろうか、という懸念がどうしても胸をよぎります。


こういったシステム開発をめぐる企画力、提案力、コンサルティング営業力というような面で、アクセンチュア社と互角に競争して日本政府から日本国民のためのシステムの開発を受注できる日本企業は、もはや存在していないということなのでしょうか。 このような国家安全保障上の妥協も、グローバリゼーションの結果として私たちは受け入れなければいけないのでしょうか。 私は日本人 IT エンジニアの一人として、このような場面における日本企業の存在感の薄さを残念に感じています。


2005年11月11日、著書を通じて私に大きな影響を与え続けている思想家の一人、ピーター・ドラッカー氏がこの世を去りました。 2006年1月に出版された、氏の最後の著書である「ドラッカーの遺言」の 101 ページに書かれていた言葉が、この入国管理システム開発をめぐるニュースに歯がゆく感じていた私に鋭く響く内容でした。

「情報技術をリードする存在になれ」
(中略) 情報経済において欠くべからざる情報技術の分野では、これまでのところ日本は常に追随国に止まっており、一度もリーダーたり得ていません。 日本には情報技術に関する潜在能力はありますが、いまだ成果を挙げることができずにいます。 情報技術の分野でイノベートする術を学び、進展する情報経済の中でリーダーとならなければ、日本が生き残る道はないでしょう。


三つ目のニュース。


2006年5月11日、サイバーエージェント社の藤田社長のブログがきっかけで、ある議論が沸き起こりました。 藤田社長が使った「頭数」という言葉に、エンジニア魂あふれる人たちが反発を表明したという議論です (その議論の一つ)。


私はたしかに、エンジニアとしては「頭数」「人月」という数え方をあまり信用していませんが、一方で、マネジメントの立場から見た resource planning のための数量化の必要性も理解できます。 私はふだんシアトルで仕事していて、このギャップを埋めるためのいろいろな興味深い英語表現を耳にし、また自分でも使っています。 Bandwidth, ETA (Estimated Time of Arrival), Programming Horsepower, Guesstimate (Guess + Estimate), Unscientific itemization, などなど・・。 Person-week, Person-month, という単位は目安として使わざるを得ないのですが、あくまで目安に過ぎず、生産性は個々人の能力や精神状態によって本当に大きく変わることに留意しながら、注意深く目安として使われることが多いように思います。


多様性を実現していく上で、立場の違う人たちの間のコミュニケーションを成立させていく努力はものすごく重要です。 ところが、私たちが日常何気なく使う語彙が、それを難しくしている場面もたくさんあり、この藤田社長のブログをめぐる議論はその例の一つであると思いました。 摩擦の少ない言葉がもう少し簡単に見つかればいいのですが、と思います。




などなど、多様性とグローバリゼーションをめぐる摩擦の話は本当に あちこちで目にします。 私たちはこれからも地道に、多様性とどう向き合い、多様性をどうやって愛することができるのか、考え続けていく必要があるように思います。