二週間の東京滞在


昨夜 東京に着きました。 今回は 6/2 までの滞在。 この期間の私のゴールは、転職活動 (面談とか) と、もう少し長期的な興味に沿った知り合いづくりと情報収集。 これからの 2 週間の間に、人と会う約束やイベントに参加する予定などを すでに 10件以上入れているので、だいぶ忙しくなりそうだけど、発見と学習と刺激と驚きの詰まった充実した2週間になりそうです。


今回の滞在中の、直接的な転職のための活動は、以下の2つ。


その1。 滞在中に、いくつかのベンチャー企業で仕事している第一線の人たちと実際に会ってみて、自分の志望との間のマッチングを探ります。 今回 会ってもらう予定の人たちはいずれも面白い (と私が感じる) 仕事をしている人たちで、実際にその会社に就職するかどうかは別にしても、いい仕事をしている人たちと話して刺激をもらうことは とても楽しみです。 相手の人たちにも できるだけ有意義な時間を過ごしてもらいたいので、私自身も つねに心を alert に保って、刺激的なレスポンスを提供していきたいと思います。


その2。 転職のための情報収集の継続。 自分で興味を感じた企業については直接自分で情報収集したりアプローチをかけたりできますが、同時に、人材紹介会社の人たちの話も聞きながら、自分の選択肢を探ります。 私の周囲には人材紹介エージェントやキャリア・コンサルタントのお世話になることについてあまり良いイメージをもっていない人たちもいて、たしかに 2月ごろに自分でいろいろな人材紹介会社の人たちに会ってみた印象として「うーん あんまり役に立たないなあ」と感じる場面も残念ながら多かったけれども、中には 優れた仕事をしている人もいるので、自分の情報収集のチャンネルの一つとしてこれからもお世話になりそうです。




転職のためっていうよりは、自分の長期的な興味に沿った探求の活動は、以下の3つ。


その1。 5月23日、新潟県にある IUJ (国際大学) に出かけて、1日かけて大学院の経営学コースや MBA コースの授業を見学させてもらいます。 もともと、オープンセミナー「日本経済の再生と今後の課題」 をちょっと覗いてみようかな、と思って軽い気持ちで申し込んだんだけど (しかも、最初はこのセミナーの場所が東京だと勘違いしていた)、この大学のスタッフの人がめちゃくちゃ丁寧に見学の提案をしてくれたので、上越新幹線で 90 分の距離なら足をのばして探検するのも面白そうだと思いました。 経営学/MBAの学生の8割が、アジアなどから来ている留学生だそうで、この大学の学生の人たちが日本という異国の地で学びながら どんな夢を追い求めているのか、たいへん興味深いところです。


その2。 5月25日、WBS (Web Business Shuffle) 2.0 という面白そうなイベントに参加します。 RSSATOMといったデータ形式が将来どう私たちの役に立つんだろうか。 また、タグやブックマークを共有すること (個人の関心、人手による分類) と検索技術がこれからどう mix していくのか。 テーマも面白そうなイベントだけれど、 こういうイベントに興味を持って来ている人たちって もしかすると自分が将来何かの機会に (どの会社であるかに関係なく) 一緒に仕事することになる人たちかもしれないので、ここでも何らかのアクティブな貢献ができるといいなと思います。(テーマと関連の深そうな記事)


その3。 6月2日、グロービス・マネジメント・バンクという組織が主催する「経営のプロ」セミナー 第3回に出かけて、株式会社リヴァンプの澤田貴司氏という人の話を聞いてきます。 この人、日本テレビの汐留リーダーズ EYE の podcast で一回見たことあるけど、なんだか面白い話が聞けそうなので楽しみです。 グロービスのビジネス・スクールも、アジアでトップのスクールを目指してがんばっていて、ビジネス・スクール以外にもグロービスはいろいろ興味深い活動をしているので、もしかすると 今後の自分と何らかの接点がありうるかな、とも思っています。




ほかにも、ほんとうは滞在中に、東京でやっている いろいろなエンターテイメント系イベント (演劇とかコンサートとか) も覗いて東京のいまの文化を探検したいな、と思っていたんだけど、今回の滞在では残念ながら あんまり時間がないみたい。 けど、少なくとも映画「かもめ食堂」を観に映画館に行く時間ぐらいはつくりたいな。

多様性とグローバリゼーションをめぐる最近のニュースについての雑感


多様性 (diversity) の大切さを軽視してしまう問題は、シアトルで生活して自分がマイノリティ民族の一人としての立場を経験してはじめて、リアルな問題として考えられるようになったことの一つです。


押しとどめようのない経済的・文化的グローバリゼーションの流れの中で、それでもなお多様な文化がなるべく少ない摩擦で共存して生きつづけ、しかも それぞれの文化が経済的に競争力を保ち続ける方法はあるのだろうか。 地域社会のマクドナルド化、「簡単・便利」の名のもとに日本の地方の人々がファミレスとコンビニを選びつづけ、地域共同体が弱まっていく傾向はもう変えられないのだろうか。


個人どうしのつながりはどんどん砂粒化していく。 お互い知らない人どうしの相互不信は増大する。 誰か特定の人が悪意を抱いているわけではないにもかかわらず、南北問題的な構図があちこちに生まれ、顔が見えないシステムの暴力によって この世界の豊かさが損なわれている場面がどうしても次から次へと目に付いてしまいます。


エンジニアの端くれとして、自分が汗を流して作った製品なりサービスなりが使われた結果として、自分がその「顔の見えないシステムの暴力」に気付かないまま加担して、この世界の文化が貧しくなってしまうのだとしたら、これは大問題だと思うのです。


このことについて考えれば考えるほど、自分がいかにモノを知らないかに愕然とします。




べつに閉鎖的・偏執狂的・自己愛的なナショナリストである必要はないのだけど、日本という一つの文化圏 (日本にいる日本人以外の人たちも含め) の活力が弱まることは、世界の多様性にとって損失なのだ、と思うようになりました。 (こう思うようになったことが、私がアメリカから日本に戻ろうと思ったきっかけの一つでした。)


「中国 or 日本」だとか、「アメリカ or 日本」だとかいう対立項による問題設定は、この本質を見えにくくしているように思います。 多様性を促進するためには、口先でそう言っているだけではダメで、A. ミンデルが著書「紛争の心理学」で提唱しているような真摯なコミュニケーションを日々実践し、シアトルでも起こっている移民規制強化反対デモのような場面を他人事ではなく、日本にも関連の深い問題として考え、大前研一氏が著書「ロウアー・ミドルの衝撃」で語っているような問題解決アプローチを、日常の自分の仕事や私生活で地道に実践していく必要があるように思います。


そんなことを考えながら 町を歩き、日々世界で起こっているニュースに耳をすませていると、この多様性とグローバリゼーションをめぐる摩擦の音があちこちに聞こえます。


今日は、そんなニュースを少し拾い集めてみました。




一つ目のニュース。


2006年5月5日からの週、2005年公開の香港映画「The Promise (無極)」がシアトルの映画館で上映されていたので観てきました。 Searchina ではわりと好意的な報道がされていて、出演している俳優・女優も中・日・韓の大物なので どんな映画なのだろうと思ったのですが・・・。 観てみて、だいぶ肩すかしというか、これって脚本にムリありまくりのベタな B 級ファンタジーやんか! (笑) 見終わってから US メディアをチェックしてみたら、予想通り、おおむねボロボロに言われていました (笑)。 これはその一例:

"The Promise" is crazy, but it is for the most part the good kind of crazy. It's big, fantastical and epic, combining grand scale with individual passion. It's absolutely gorgeous to look at. It's also utterly ridiculous, with action that leaps from exaggerated to cartoonish, a plot driven by trivial things, and special effects that occasionally fall well short of the cinematography that surrounds them. The film careens back and forth across the line between glorious excess and excessive excess.


日中関係はまったくもって政冷経熱のようです。 5月9日には、経済同友会が首相の靖国参拝懸念を表明、すぐさま小泉首相それに反発、とのこと。 こういうニュースと前後してこういう映画を見ると、その温度差にあらためて驚きます。


ピリピリした政治の話はどこ吹く風、内容はベタな B級 とはいえこういう中・日・韓共同の映画を作ることにチャレンジしてくれている香港映画界の熱意とエネルギーには敬意を表したいです。 現在はお互いの歴史認識にあまりに隔たりがあるので無理としても、いつの日か将来、中・韓・日の映画界が共同して、第一次大戦から第二次大戦にいたる歴史のドキュメンタリー・ドラマ映画が作られる日が来ることを願っています。 今回の The Promise の映画の中身には私はあんまり良い印象を受けませんでしたが (笑)、まあそれは趣味の問題です。 かつての Tokyo Raiders (中・日) とか、 Seoul Raiders (中・韓) みたいな映画は、楽しくてよく出来た映画だったと思うので、これからも 香港映画界の人たちを応援したいと思います。 こういうグローバリゼーションには私は大賛成で、商業的にも成功するのはいいことです。


シアトルは雨の町だからなのか、Movie Goer と Book Worm が多いと言われています。 映画館にもいろいろあって、郊外にある一般家族向けの大型映画館ではハリウッドものやディズニーばっかり上映していて私はあまり行かないのですが、私がちょうど今住んでいる University District という地区にある小さな映画館では、コアな映画ファン向けに、ハリウッド系ではない世界中の映画を上映してくれています。 最近の日本映画では、Nobody Knows (誰も知らない) とか、Tony Takitani (トニー滝谷) とかもシアトルで上映されていて、白人の映画ファンの人たちがじつに興味深そうに鑑賞している様子を見ること自体が私には楽しみの一つでした (私が映画館の客席を観察していた限りでは、とくにNobody Knows は観客の人たちに強い印象を与えていたようです)。 Tony Takitani も、いわゆるアメリカの白人の人たちの間に一定数いる村上春樹ファンを強く惹きつけている感じでした (そういえば、村上春樹って今年の10月にプラハカフカ賞を受賞するそうですね。 めでたい。)




二つ目のニュース。


マル激 2006年5月5日号のテーマは入国管理法改正案でした。 法律の話とは別に、それを支える IT システムを誰がつくっているかという話を聞いて、またまた考えさせられました。


日本人一人一人の出入国管理のオンライン・システムについて、これまでの古くてレガシーなシステムは日立などが専用システムを つくっていたのを、オープン系 (LinuxWindows) を使って全く新しく作り直すという仕事をアクセンチュア社が日本政府から受注したとのことです。 アクセンチュア社は日本政府から他にもさまざまな重要なシステムの開発を受注しており、日本政府側の個々の窓口が把握していないところで、じつはアクセンチュア社側に、日本に住んでいる人たちの個人情報、犯罪履歴などについての巨大なデータベースが出来上がりつつあるという可能性があります。


アクセンチュアには私の友人も勤務しているし、アクセンチュアの社員の人たちの能力の高さと誠実さを私は決して疑うわけではありません。 しかし、日本政府が必要とする公的なシステムと、日本人の個人情報や出入国情報、犯罪履歴まで含めた巨大なデータベースの開発を、アメリカ企業が担っているというのは、国家の独立性と安全保障の点で危険すぎないだろうか、という懸念がどうしても胸をよぎります。


こういったシステム開発をめぐる企画力、提案力、コンサルティング営業力というような面で、アクセンチュア社と互角に競争して日本政府から日本国民のためのシステムの開発を受注できる日本企業は、もはや存在していないということなのでしょうか。 このような国家安全保障上の妥協も、グローバリゼーションの結果として私たちは受け入れなければいけないのでしょうか。 私は日本人 IT エンジニアの一人として、このような場面における日本企業の存在感の薄さを残念に感じています。


2005年11月11日、著書を通じて私に大きな影響を与え続けている思想家の一人、ピーター・ドラッカー氏がこの世を去りました。 2006年1月に出版された、氏の最後の著書である「ドラッカーの遺言」の 101 ページに書かれていた言葉が、この入国管理システム開発をめぐるニュースに歯がゆく感じていた私に鋭く響く内容でした。

「情報技術をリードする存在になれ」
(中略) 情報経済において欠くべからざる情報技術の分野では、これまでのところ日本は常に追随国に止まっており、一度もリーダーたり得ていません。 日本には情報技術に関する潜在能力はありますが、いまだ成果を挙げることができずにいます。 情報技術の分野でイノベートする術を学び、進展する情報経済の中でリーダーとならなければ、日本が生き残る道はないでしょう。


三つ目のニュース。


2006年5月11日、サイバーエージェント社の藤田社長のブログがきっかけで、ある議論が沸き起こりました。 藤田社長が使った「頭数」という言葉に、エンジニア魂あふれる人たちが反発を表明したという議論です (その議論の一つ)。


私はたしかに、エンジニアとしては「頭数」「人月」という数え方をあまり信用していませんが、一方で、マネジメントの立場から見た resource planning のための数量化の必要性も理解できます。 私はふだんシアトルで仕事していて、このギャップを埋めるためのいろいろな興味深い英語表現を耳にし、また自分でも使っています。 Bandwidth, ETA (Estimated Time of Arrival), Programming Horsepower, Guesstimate (Guess + Estimate), Unscientific itemization, などなど・・。 Person-week, Person-month, という単位は目安として使わざるを得ないのですが、あくまで目安に過ぎず、生産性は個々人の能力や精神状態によって本当に大きく変わることに留意しながら、注意深く目安として使われることが多いように思います。


多様性を実現していく上で、立場の違う人たちの間のコミュニケーションを成立させていく努力はものすごく重要です。 ところが、私たちが日常何気なく使う語彙が、それを難しくしている場面もたくさんあり、この藤田社長のブログをめぐる議論はその例の一つであると思いました。 摩擦の少ない言葉がもう少し簡単に見つかればいいのですが、と思います。




などなど、多様性とグローバリゼーションをめぐる摩擦の話は本当に あちこちで目にします。 私たちはこれからも地道に、多様性とどう向き合い、多様性をどうやって愛することができるのか、考え続けていく必要があるように思います。

教育サービスと市民社会について雑感


今年10月に東京・豊洲にオープンする予定のキッザニアという施設は要注目だと (勝手に) 思っている。 その運営会社の社長である住谷 栄之資 (すみたに えいのすけ) 氏が 先日、ニュース番組に登場していた (日本テレビ社の Podcasting "汐留リーダーズEYE"、4月28日号)。


住谷氏は、もともと海外レストランチェーン「Tony Roma's」「Hard Rock Cafe」「カプリチョーザ」などを日本に持ってきて成功していた人物とのこと。 その彼がメキシコのキッザニアのことを知り、これを日本に持ってこようと決意して2年前 (2004年) ごろから資金なし・社員4名の状態で出資者・スポンサー集めを開始。 子供たちが「遊ぶ」だけではなくて、いろいろな職業的な体験ができるようになっている教育的施設に、こうして日本で賛同者を得ることができたという話は なんだかいいなあと思った。 かつてのバブル時代のテーマパーク (「遊び」中心) の多くが事業として成功しなかったのに比べて、こういう公共的な意味も強い施設は事業としても成功しやすいかもしれない。 応援したいところ。




もう一つ教育について考えさせられた最近のニュース。 日本ビデオニュース社のマル激トーク・オン・デマンドの 4月21日号の個人情報保護法についての話は、あらためて私たち市民が何を知るべきなのか、について考えさせる内容だった。以下要約。

  • 個人どうしのつながりが薄れ、公権力の外にある共同体が弱まっている傾向が、同時に「何かあったらすぐに公権力になんとかしてもらおうとする」傾向を強めている。 宮台真司氏の言葉でいう「くれくれタコラ」、もっとくれ、誰かなんとかしてくれ、「お上」がなんとかしてくれ、という態度。 地域の中での相互不信の増大。
  • この傾向は、権力側から見ると、都合がいい。 監視社会化がすすむことで、公権力や営利事業者が市民の権利を侵害する危険がふえている。 不安のポピュリズムにより、危険な権益が「民主的」に支持されてしまう可能性がある。
  • 公権力や営利事業者の横暴を監視する役割は、もはやマスメディアには期待できなさそう。 横暴を予防していくには、官僚と同じぐらいの能力を持った人たちが市民セクターに必要なのではないか。
  • 公権力でも営利ビジネスでもない、「市民セクター」がもっと強くなること。 公権力の外にある共同体による人の信頼関係を強めていくこと。 これは今後、とても大切。 「国家」以外にはバラバラの個人しかいない、という状況になってしまうと、これは権力の専制に拍車をかける。
  • 日本には現在、「プライバシー権」を明文化した法律が存在していない。 (個人情報保護法は、じつはプライバシー保護法ではない。なんてこった。)


教育の話は、私たちは どういう社会に住みたいのか、という話でもある。 難しい問題のことは統治権力にぜんぶお任せ。 難しいビジネスの問題は会社の上司にぜんぶお任せ。 自分たちは「ガマン」して「お上に奉仕」していれば、お気楽に楽しい毎日が過ごせる・・・。 そういう社会に、私は全く魅力を感じないなあ、ということを、マル激トーク・オン・デマンドの番組をみて改めて思った。




と、ずいぶんマクロなことを考えていたら、ITと教育がらみのミクロなニュースが目にとまった。

これに参加している教育コンテンツ提供企業はというと、アルクイングリッシュタウン、語研、ナガセPCスクール、TAC・・・。 なんだ、語学 + パソコンしかないのか。 この内容には私は興味を感じない。 けど、教育コンテンツの配信という事業には少し興味があるので、機会があったら こんど東京に行ったときにネットカフェを覗いて どんな感じなのか調べておこう。




語学やパソコンなどの実用的なスキルよりも、もうちょっとメタな知識に興味を持った人たちのための教育サービスって、学校しか提供していないのかな。 社会人向けのいろいろな教育サービスをざっと見渡してみると、こんな分類になるんだろうか。
 (1) MBA系 (経営学)
 (2) スキル系 (語学、プログラミング、etc)
 (3) 自己啓発・モチベーション系
 (4) 社内トレーニング系
 (5) 一般学術系 (社会学、心理学、生物学、物理学、歴史学、経済学、etc..)
 (6) 生活系 (料理)
 (7) アート系 (絵、お花、etc)


私自身が ふだん強い興味を感じる分野は (5) で、時事問題について考えるためにもこの分野は重要だと思うんだけど、この学習を続けるには「一人で本を読む」か「もう一回大学に行く」しかないんだろうか?


シアトルで暮らしながら、興味を感じた著者の Book reading event に出かけたり、たまに University of Washington の公開講義に顔を出したりしていたような形で、「ちょっと外に出かけながら」時事問題の背景について広い学習を続けたい、と思っている人は 意外と私以外にも いるのじゃないかなあ、と考えてみたりもする。


社会人が、商業な情報ではない マトモな知識を学んでいくことは、マクロな話でいう市民セクターの強化のためにも重要、なハズなんだけど、今現在の私のような立場だとまだちょっと中途半端なのかなあ。 けど、こんにちの IT 技術をもってすれば、いろいろ新しい官・学・産の交流のチャンネルをつくっていけるんじゃないかなあ。 キッザニアは IT というわけではないけれど、こういうチャンネルづくりそのものを何らかの事業としてやっていくことができないものか、と思う。


たとえば身近な例として、以下のようなイベントの情報を、たとえば東京という地域で、一覧できるような形で配信してくれているサービスってないんだろうか。


もし今、誰もこういう情報編集サービスをやっていないんだったら、自分でやってみるのもいいかな、と思う。 こういう情報編集・配信そのものがビジネスになるかどうかはわからないけど、少なくとも私はこういうサービスがいま、とても欲しい。

キャリア形成について、若い人たちに伝えたいこと=自分が聞きたい意見。


最近たまたま、仕事の選択やキャリアの形成をめぐって、これから社会に出たり大学生になろうとしている若い人たちに私たち年長者が伝えるべきことについて 興味深い意見をいくつかネットで見かけた。


意見(1)。

研究人生を、昇進ゲーム、研究者の棲み分け、論文稼ぎ/研究資金調達といった面を中心に考えるのはとても空しく感じます。(中略) 研究者は精進して精一杯研究や教育に尽して、社会貢献するべき、というのが正道ではないでしょうか? ですので、これから研究者を志す人には、このようなボードゲームはお勧めできません。 教育上よくありません。
  研究者の幸福とは? (情報化の現状と未来, 4/26/2006)

意見(2)。

調べたり議論していると銀行のビジネスモデルが揺らいでいるとか,不良債権が大変だとか,新興市場が出来て間接金融から直接金融への移行が加速とかそういう話をするんだけど,就職活動に入った瞬間,みんなそういう銀行を受けるんだよな,これが.金融論を学んで金融界に行くのはまぁ素直なのかも知れないけど,お前らゼミで議論してたことは何だったんだ?とか突っ込みたくなった.けれどもこれは学生のせいだけというよりも,会社が就職活動をそういうものにしている,というのもあるんだろうな.
  要はガクモンな仕事って少ないんだよ,きっと (雑種路線でいこう, 4/23/2006)

意見 (3)。

組織は潰しのきく人材を手放したがらないし,たいがい上のいうことを聞いていると,飼い殺されてしまうようにできている.
 かといって,教育ビジネスもベンダと連んでマッチポンプ式に共依存なエンジニアをどうつくるかという仕掛けだから,あまり幸せになれそうな気がしない.では,流行りそうな技術にヤマを張って,教科書がなくても自分でガツガツ調べて試して勉強できるような技術者って,どうやったら育つんだろうか.或いはその路線を目指した場合に,ちゃんと報われるキャリアパスみたいなものは,どうやったらつくれるんだろうか,とか,そういうことを悩み始めている.
  人材不足?の背景 (雑種路線でいこう, 4/26/2006)

意見 (4)。

プログラマは新しい技術に長けていることだけが価値じゃない。 大量に積もった細かいタスクを淡々とこなしていける並行処理能力をもったプログラマ。あるいは人が作ったものを丁寧に磨いていける能力を持ったプログラマ。そういう複数のカテゴリの人たちが一緒になって組織を作っていくのです。組織はお互いがお互いの仕事を尊敬しあってやっていないと、いずれ崩壊する。だから、僕はこの異なるタイプのエンジニアの能力というのをお互いがお互いに認識しあえるかどうかは非常に重要だと思っています。
  プログラマの種類とキャリア (naoyaのはてなダイアリー, 4/26/2006)

意見 (5)。

思い起こすと学生時代、「開発」は企画の命令でただモノを作る作業者、「営業」はお客にへこへこして契約を取ってまわる作業者で、「研究」と「マーケティング」は何やってるかよくわからなくて、クリエイティブな仕事をしていそうな職能は「企画」と「デザイン」だけのイメージがあった。 (中略) クリエイティブ=企画、それ以外=誰かの下僕の労働者,冴えないサラリーマン....そんな固定概念を持ってしまっていた。
  就職活動ではみんな「商品企画」希望っていうけど企画職能はツブシが効かねぇぞ! (キャズムを超えろ!, 4/23/2006)

意見 (6)。

学校から労働の場への接続は、何よりも雇用した企業が新入社員教育として行ってきた長い歴史がある。学卒の新入社員は、職業や労働に対して余計な知識を持っていることより、素直に何でも受け入れることが求められてきた。職場の先輩や人間関係の中で、技能・技術に関する訓練やOJTの中で、「企業文化や風土」に染め上げることが会社への帰属意識や忠誠心を育てることに必要だったからである。キャリア教育では、「望ましい職業観・勤労観の育成」が小学生段階から一貫して強調されている。「職業観・勤労観」は、「職業や勤労についての知識・理解及びそれらが人生で果たす意義や役割についての認識であり、職業・勤労に対する見方・考え方・態度などを内容とする価値観である」としている。(前掲書P162)ここで問題なのは、誰にとって「望ましい」のか、であり、その内容は何か、である。耐震偽造事件や欠陥自動車の隠蔽、高級官僚の天下りや財界の政治家へのヤミ献金や贈収賄など政財官のモラル崩壊状況が連日報道されている環境の中で、「望ましい職業観・勤労観」が求められているのは、「大人社会」であり、子どもたちには、どのように説明してもリアリティを持って明示的に示すことは難しい。
  横山滋氏の意見 (もじれの日々, 4/27/2006)


個々の意見はそれぞれ興味深い立場を表明したもので、これらについて良くも悪くも言おうとは思わない。 ただ、こうしていろいろな意見を並べてしばらく読み返しながら、自分の今までの社会人経験と比べてみると、自分が今まで周囲の年長者に聞かされてきた意見のどれが自分の役に立って、どれが役に立たなかったのか冷静に評価できて面白い。


(そういえば、意見 (5) についての対論として、「ウェブ進化論」で紹介されている Ph. D. 保持者が汗を流す Google の文化についての意見もある。 私の見るところ、人をコントロールしたいという欲求の強い人は、周囲への善意よりは自分の中の欠乏感に衝き動かされていることのほうが多いと思う。)


自分の次に来る世代のことを考えたときに、私たちは大人として、これから大学に入学したり社会人になったりしていく若い人たちに どんな応援のメッセージを送れるんだろうか、ということを ときどき考える。 本職の研究者と共に過ごすことのできる学習・研究環境の魅力について。 会社に就職するということが、必ずしも人に「使われる」ということではないということ。 仕事や会社や恋人との共依存の関係に陥らないように気をつけなければいけないということ。 独立して働くという可能性について、などなど・・・。


どうやって若い人たちを応援できるか、は簡単ではなさそうだけど、言ってはいけないこと、というのはいくつかあるように思う。 たとえば、私は若い人たちに対して、以下のようなことを あたかも不動の真実であるかのように言う大人ではありたくないと思う。

  • 「学生のうちは、世の中の実情を知らなくてもいいんだよ、どうせ知ろうとしても無理だし」
  • 「大学生のうちに いっぱい遊んでおきなさい、就職したら遊べなくなるから」
  • 「会社に就職したら、ごく一部の人たちを除いては、ほとんどが人にコキ使われる仕事で、みんな『食べていくため』にガマンしているんだよ」
  • 「研究生活は、修行僧みたいな生活が理想なので、経済やお金の動きに関心のない人しか やってはいけないんだよ」


こういう意見は、ある側面をネガティブな言葉で言い当てているのかもしれないけど、こういう意見に同意せずに「ムカつく、なんだそれ?」と思う人たちが 多数いてほしいと思うし、こういう意見に同意しない大人たちも存在していて、そういう大人たちが全員 現実離れした夢想家であるわけでもないということを伝えたい。 夢想家と呼ばれることにビクビクしている、全部を諦めている大人しかいない社会なんて、なんというか、平和でいいのかもしれないけどカッコ悪すぎて、若い人たちに あんまり見せたくないと思う。


もう少し考えてみよう。

ミヒャエル・エンデ「モモ」


今年の1月ごろ、この本をひさしぶりに再読したのでちょっとメモを書いた。


モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 (岩波少年少女の本 37)
モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 (岩波少年少女の本 37)


ミヒャエル・エンデの物語は、見かけは児童文学だけど、内容は大人たちと現代社会への痛烈な風刺。


モモが友だちに囲まれて楽しく暮らしている世界に、「遊びは時間の無駄だ」と言う灰色の時間どろぼう達の魔の手がのびる。 時間どろぼうを生み出したのは実は大人たちの心、子供たちは忙しい親たちに相手にされず寂しい日々を送る。 時間の境界に旅立ったモモはそこでこのうえなく美しい音楽とかけがえのない時間の花のことを知り、それが人の心に与えられた時間の秘密なのだと発見する。そしてモモは時間どろぼうたちと闘って盗まれた時間の花を人々のもとへ返し、光と花の歌を人々に伝える。


大上段に教訓を垂れる論説でなくて、エンターテイメント性をそなえた寓話なので、余計に心に残る。 とくに、モモが時間のみなもとを訪れたときに出会う音楽、光の柱、振り子、現れては消えていく花の描写は美しく神話的で、どうにも忘れられない (ルドルフ・シュタイナーの描く世界を想起させる)。


日々忙しくしている犠牲と引き換えに、自分はいったい何を得ているんだろう。 生産性だの時間管理だの目標管理だのに目くじらを立てて、それでいったい自分の日々は幸せなんだろうか。 立ち止まって考えるとき、ときどき読み返したくなる物語。


ひさしぶりに再読したら、エンデがこの物語をドイツで発表したのは、私が生まれたのと同じ1973年だったことを発見して、ちょっと嬉しくなった。




・・・というのが、1月に再読したあと書いたメモの内容だった。


そこに今日の発見 (4/28/2006) !! 神田昌典氏のメルマガで最近、神田氏がこの本を紹介。 私は、この本は大人こそ読むべきだ、と思っている一人なので、なんだか仲間が増えていくようで嬉しい。 きっとこういう形で、この本は根強く読まれていくんだろうなと思う。


彼の公式ホームページは ちょっとアレというか、商売っ気が強すぎるのか、一見怪しげだけど (誰かデザインを手伝ってあげればもっとカッコよくできると思う)、さすがコンサルタントらしく、紹介文は面白い。 同時に、ケインズ理論の影と代替理論についてエンデがインタビュー形式で話している「エンデの遺言」についても神田氏は紹介している。


以下、「神田昌典の、ちょっと仕事の合間に・・・Vol.64」、2006年4月28日号からまるごと引用。

ミヒャエル・エンデの「モモ」を読んだことがありますか? 私が海外に在住していた時期に日本で出版されたようで、私はいままで読んだことがなかったのですが ― この度、読んでみたら、恐ろしく衝撃的な本でしたね。


これほど頁を捲ることが恐ろしく、なおかつ希望を感じてしまう本は、大学生のときに読んだグレゴリーベイトソンの「精神と自然」以来じゃなかったかな?


ストーリーは、灰色の男たちが、時間貯蓄銀行に時間をためることをひとびとに勧誘するという話なのですが、単なるファンタジーではなく、エンデ氏は、この本を金融の専門家に多数インタビューをすることで書いたそうです。


つまり・・・時間というのは利子制度のメタファーであって、時間貯蓄銀行をそのまま現在の金融制度に置き換えても当てはまります。


さらに、この本は、一九七〇年代に書かれたそうなのですが、いま読んでみると、まさにインターネット社会の到来を明らかに予見していたように思えます。 そもそも灰色の男の名前が、XYQ/384/b氏なのですよ。WEBアドレスの形式となっているのには、驚かされます。


私なりの解釈はまた別の機会に譲りたいとおもいますが、ぜひ勇気のあるビジネスマンは、読んでみてください。 ビジネスをやる気がうせます(笑)。 いや冗談じゃなく本当の話で、価値観が根底からひっくり返される。ただ、これを乗り超えたあとには、経営者としての器が広がっているだろうなぁ、とおもいます。


勇気のある方は、ぜひご一緒に、「エンデの遺言」もお読みください。これも読むと、金を稼ぐ気を失います(笑)。 ただ、それを乗り越えると、創造性豊かな童心がふつふつと涌いてきます。その結果として、豊かなビジネスができるようになれるかも! どちらを選ぶかは、あなた次第!

チープ革命が中間業者に迫る変質


チープ革命についての興味深いニュースが 2 つ。


これらの動きは、いわゆる「中間業者」に私たちが期待するバリューの変化をますます加速するだろう。 以下、この2つのニュースをめぐっての中間業者の変質についての雑感:

  • 中間業者が不要になることはないけれど、 「売る」代理しかできないビジネスは退場し、「買う」代理のできるビジネスが台頭するという流れはますます加速する。
    • 形骸化した既得権益を守ろうとする中間業者は、アクセス解析という技術が持つ容赦ない合理化の力で退場させられ、顧客と提供者をより高い効率で (ROI に根ざした指標により) マッチングすることのできる中間業者どうしの競争が熾烈化するだろう。 これは最終的に、顧客と提供者の両方にとって利益がある。
  • いわゆる「ECポータル=玄関口」の外のチャンネルによる商取引 (アフィリエイト + ドロップシッピング) が次第に増大していくことで、 物販だけに特化した巨大なショッピングモール型サイトは、他の (これまで eコマースと関連がないと見なされていた) コンテンツサイトと競合するようになっていくのではないか。
    • eコマースサイトが、商品ごとにコメント欄や口コミ機能を充実させていく一方で (商品⇒コンテンツ) 、 「商品を買う」以外の目的でネットを歩き回っている人が、たまたま読んだり見たりしていたコンテンツの中で紹介された何かを注文したりする (コンテンツ⇒商品) という場面も増えていくだろう。
    • 細分化されたニッチな市場におけるコンテンツ展開や商品取引のほうが、それぞれの顧客 (多くの場合はおそらく個人) にとってはより「自分にとって楽しい」エクスペリエンスであり、万人向けの大きなポータルは「平板すぎてつまらない」エクスペリエンスになってしまうというケースが増えてくる予感がする。 ポータルへの大量集客というビジネスがなくなることはないだろうが、それだけがビジネスの選択肢ではない。 アフィリエイトと同じように、ドロップシッピングロングテール領域におけるビジネスを支える力のひとつになりそう。
  • 高機能なアクセス解析は、高価であり、大規模な企業を対象としている。 が、これがマクロなレベルでの「中間業者」ビジネスのムダを減らし、メガ広告キャンペーンなどの収益性を上げていくことで、その周辺やニッチに展開する中小ビジネスの底上げに貢献する可能性がある。 高付加価値で高価格なサービスを提供することで、じつは経済のネットワークの他の部分での全体的な低価格化に貢献する可能性がある。
  • コンテンツ連動型広告、キーワード連動型広告と同じ原理が、ドロップシッピングサービスの提供にも応用できる。 このドロップシッピングサービスの「価格は販売する側が決定」という特性は、オークション (買う側がなるべく高い価格を提示して入札)、逆オークション (受注する側がなるべく低い価格を提示して受注) のサービスと連携する可能性があるため、 多くの商取引における価格決定のメカニズムのリアルタイム化が実現可能なのではないか。 また、自分の「集客実績」を何らかの形で 取引材料として用いることにより さらに大きなバーゲニングパワーを手に入れる、というような、いままで人手を介して行われていた交渉の一部が システム化されて、 そのような「ネゴシエーションサービス」をオンラインで提供して手数料を稼ぐという新しいタイプの「中間業者」が現れてくるかもしれない。


チープ革命は、とくにロウアーミドル層・ロウアー層の人たちの暮らしを豊かにしていくために重要。 これまでの集約型ビジネス、高コスト体質のビジネスの仕組み自体に大ナタをふるって効率化することで、より低価格ながらも高品質・多様な商品とサービスを提供していく潮流は、チープ革命の進展と相関しているはず。


また、アフィリエイトドロップシッピングの流れは、個々の決済のマイクロペイメント化・分散化の流れを推し進めると同時に、 販売組織の境界も曖昧にしていく。 極端な話、「中間業者はぜんぶ個人、顧客も全員個人、提供者も家族でやっている零細企業」というような場合には、いわゆる「組織による安全保障」がだんだん難しくなってくる。 このような分散化されたミクロな取引における安全を保障することが、インフラ提供者や金融機関の課題となっていくように思う。 また、このような形でビジネスを行う人たち (場合によってはこれに家計を依存する人たち) が増大するにつれて、その人たちに対する福祉や社会保障は制度としてはたして整備されているのだろうか。


(まだあんまりよく考えてないけど、これらの技術が 非営利組織にどう影響するか、という点に考察してみるのも興味ぶかい。 アフィリエイトドロップシッピングアクセス解析などは、非営利組織の運営においても大いに役に立つ技術であると思う。 寄付金の募集、効率のよい購買、非営利サービスの告知、協賛者の増大など多くの場面において、営利組織で用いられているマーケティング手法が使えるように思う。)

経団連のコンテンツ・ビジネスについての提言


4月18日付けで、日本経団連が「エンターテインメント・コンテンツ関係者の戦略的コラボレーションに向けて 〜ユビキタス時代の新たなビジネスモデル構築のための提言〜」を発表した (要約)。


ざっと読んだ感じだと、現状を俯瞰的にまとめてあり、政府の政策上の留意点がきれいに整理されている。 提言そのものの内容はかなり保守的で、とくに斬新さはない、が、権利処理、著作権、国際展開など、重要なテーマが並んでいる。 こういうのは、目新しさは役に立たなくて、時代に即して当たり前のことを何度も何度もくりかえし提言していく必要があるのだろうと思う。 今後数年にわたって、あちこちからリンク・参照されそうな文書。


たとえば、国際展開についての提言はこんな感じ:

(2) 国際展開に向けた協力


コンテンツ・ビジネスの飛躍的拡大のためには、日本の数十倍の市場規模を有する世界市場での展開が重要であり、国際展開の強化は避けて通れない。すでにアジアにおいてはジャパン・コンテンツの存在感は高まっているが、欧米においては、アニメやゲーム等競争力をもつ分野はあるものの、言語や文化の違い等もあり、市場を開拓するには至っていない。他のアジア諸国も国際展開に向けた取組みを強化している中、わが国コンテンツ産業としても、国際展開を経営戦略として明確に位置づけ、ソフト・ハード等業界が連携し、世界に日本発のビジネスモデルを地域に応じた形で展開していく必要がある。これはコンテンツ市場の拡大のみならず、ジャパン・ブランドの発信を通じて日本のソフトパワーを強化することにもつながる。そのためには、海外展開に関する知識・ノウハウの共有化や国際共同制作の強化、見本市等を通じた情報発信等が求められるとともに、例えば、政府は、アジア近隣諸国や、アメリカ、フランス等の先進国との間でコンテンツ産業に係わる戦略的アライアンスを進めることや、特定の国をモデルケースにソフト・ハード等業界の連携による海外展開を支援することも考えられる。


また、欧米のような契約社会においては、ジャパン・コンテンツの展開に成功したとしても、契約上、日本に適正な収益がもたらされるよう権利を確保しなければ、日本経済の発展にはつながらない。日本が交渉の主体性を持つことで日本側が権利をコントロールできる市場をより大きくする必要がある。